荒野には何もありません。
だから、荒野。
何もないけれども、人間が浄化される場、何もないが何もかもが詰まっている場、シェイクスピアはそういう風に荒野を設定しました。
3幕6場でリアは荒野の掘っ立て小屋に招じ入れられます。
そして、この小屋で荒野の法廷が開廷。
千匹の悪魔に真っ赤に焼けた金串を待たせ、
じゅうじゅうとあいつらに―
よし、やるぞ、火急かつ速やかにあいつらを法廷に召喚する、
さあ、お前たち、女狐ども!
と、リアが叫ぶと、
川を渡っておいでよ、ベッシーちゃん、この腕に―
お船が漏れているわいな、
口にするのも恥ずかしや、
ほんに、渡っていけないもどかしさ
と、道化が応じます。
道化が衡平裁判所の陪席の裁判官、乞食のトムが法服姿の裁判官、ケントが特命巡回裁判判事、そして、ほぞ継ぎの椅子がゴネリルです。
トムが開廷を宣します。
さあ、公平に裁判をしよう、
うとうとしちゃだめだよ羊飼いさん、
羊はみんな麦畑、
ロをすぼめて一吹きしなよ、
そうすりや羊は荒らさない。
こうして、前代未聞、奇妙奇天烈な模擬裁判が展開されるのです。
さて、道化が姿を見せるのはこの模擬裁判の場まで。
説明抜きの退場なんですが、道化は荒野で古い土俗的祭式に繋がる浄化の儀式を執り行っていたんですね。
姿を消してしまうのは、道化の役を演じ終えたから。
頑迷、傲慢、無分別な、どうしようもないリアが、発狂し、イングランドに擦ったもんだの大混乱が巻き起こった。
その大混乱を見届けて、道化はスッといなくなるのです。
中世のインタールードの道化の役回りがそうだったんですね。
さて、荒野の法廷も閉廷となり、リアが一眠りして迎えるのは、4幕6場のドーバーの崖の上。
リア物語の主題のぜんぶがドーバーで一つに収斂します。
リア王
読め。
グロスター
え、この空っぽの目で?
リア王
ほ、ほう、わしに楯突くのか? 顔に目がなく、
財布は空っぽか。目は重い判例で、
財布は軽いか、だが、
世の成り行きは見えるじゃろ。
グロスター
身に沁みて見えまする。
リア王
なんじゃ、阿呆か?世の成り行きぐらいは見えるわ
目などなくとも。耳で見るのじゃ。ほれ
裁判官がこそ泥を叱りつけておる。見るんじや、
耳で。二人をとっかえて、さ、当てっこじゃ、どっちが
裁判官で、どっちがこそ泥か?見たことがあるじゃろ
百姓の飼い犬が乞食に吠えつくのを?
グロスター
はい、ありまする。
リア王
乞食は犬から逃げるじゃろ?あれが
権力というものの姿じゃよ。
犬も役人になればへいこらしてもらえる。
地区の本っ端役人、むごい仕置きを控えろ!
何で女を打つ?自分の背中に鞭を当てろ、
自分では女を抱きたくてうずうずしておるくせに
女を打ちおる。高利貸が詐欺師を縛り首にするとは。
ボロを着ていればどんな些細な悪事でも日立つ、
法服や毛皮のガウンなら何もかも隠す。罪に金の鎧を着せてみろ、
正義の槍も先が折れて傷つかずだ。
ボロで包んでみろ、一寸法師の藁しべでもぶすりと刺さる。
罪人などいない、一人もな、このわしが言うのだ、
一人もいない、わしが保障するぞ。
恩赦状を受け取れ、ほれ、わしの権力で
告発者の口を封じるのじゃ。ガラス玉を目に入れろ、
そして、けちな策士みたいに、
ものが見えなくても見えるふりをしろ。さ、さ、さ、さ。
長靴を脱がせろ。もっと強く、もっと。そら。
エドガー
ああ、筋の通ることと通らぬことがごちゃまぜだ!狂気のなかの正気!
リア
わしの運命を泣いてくれるなら、この目をやろう。
お前のことはよく知っておる、グロスターじゃ。
がまんせねばならん、わしらは泣きながらこの世にやってきたのじゃ。
知っておろうが、生まれて初めてこの世の空気を吸うと、
オギャアオギャアと泣くじゃろ。ひとつ説教してやろう。よいか。
グロスター
ああ、何という!
リア
生まれると、泣くのはな
この阿呆どもの大舞台に引き出されるからじゃ。これは立派な首切り台、
うまい作戦があるぞ、騎馬隊の馬の諦に
フェルトを履かせるのはどうじゃ。ひとつ試してみるか、
足音忍ばせ婿どもを奇襲して、
よし、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ!
『リア王』 4幕6場
KING LEAR
Read.
GLOUCESTER
What, with the case of eyes?
KING LEAR
O, ho, are you there with me? No eyes in your head, nor no money in your purse? Your eyes are in a heavy case, your purse in a light; yet you see how this world goes.
GLOUCESTER
I see it feelingly.
KING LEAR
What, art mad? A man may see how this world goes with no eyes. Look with thine ears: see how yond justice rails upon yond simple thief. Hark, in thine ear: change places; and, handy-dandy, which is the justice, which is the thief? Thou hast seen a farmer's dog bark at a beggar?
GLOUCESTER
Ay, sir.
KING LEAR
And the creature run from the cur? There thou mightst behold the great image of authority: a dog's obeyed in office.
Thou rascal beadle, hold thy bloody hand!
Why dost thou lash that whore? Strip thine own back;
Thou hotly lust'st to use her in that kind
For which thou whipp'st her. The usurer hangs the cozener.
Through tatter'd clothes small vices do appear;
Robes and furr'd gowns hide all. Plate sin with gold,
And the strong lance of justice hurtless breaks:
Arm it in rags, a pigmy's straw does pierce it.
None does offend, none, I say, none; I'll able 'em:
Take that of me, my friend, who have the power
To seal the accuser's lips. Get thee glass eyes;
And like a scurvy politician, seem
To see the things thou dost not. Now, now, now, now:
Pull off my boots: harder, harder: so.
EDGAR
O, matter and impertinency mix'd! Reason in madness!
KING LEAR
If thou wilt weep my fortunes, take my eyes.
I know thee well enough; thy name is
Thou must be patient; we came crying hither:
Thou know'st, the first time that we smell the air,
We wawl and cry. I will preach to thee: mark.
GLOUCESTER
Alack, alack the day!
KING LEAR
When we are born, we cry that we are come
To this great stage of fools: this a good block;
It were a delicate stratagem, to shoe
A troop of horse with felt: I'll put 't in proof;
And when I have stol'n upon these sons-in-law,
Then, kill, kill, kill, kill, kill, kill!
ファーストフォリオ
フランスに最も近いイングランド南東部の崖の上。
その目もくらみそうな断崖絶壁から投身自殺して死んだはずの盲目のグロスターと、発狂したリアが、再会したのです。
リアは嗅覚で上娘二人の本性を嗅ぎ出し、この世のありようも嗅ぎ出したようです。
理性が破壊されれば、人は野生動物に還るほかありません。
リアの目に見えるのは、野生動物の察知能力によってしか捕らえられない、あるがまま、そのままの、剥き出しの、罪深いとしか言いようのない、赤裸の世界。
そこには、もはや、いかなる人間の理屈も、感傷も、入り込む余地はなさそうです。
人は、生まれる前の世界も、死後の世界も、この目で見ることはできませんね。
ですから、あるがままの人生っていうのは、出発点も終着点もわからないままに、長い旅路を往くようなものでしょう。
オギャアと息を吐いて、スッと息を引き取り、この世を去る運命を背負っている、そんな存在ではないでしょうか。
地位、権力、物で着膨れていると、こんな単純明快なことすら気がつかなくなってしまうんですね。
そんな、丸裸の、あるがままの人生に思い至って、リアは、長靴を取れ、そら、もっと強く引っ張れ、と、裸足になろうとしてもがきます。
傍らでエドガーが泣き、靴を履いてもいないリアの痛ましい素足を抱いて眼球のないグロスターが泣き、その涙がリアの素足を濡らす場面。
この世の光景とも思われませんが、盲目のリアを開眼させるには、発狂という究極の手を使うほかなかったということなんですね。
嵐の荒野で、そして掘っ立て小屋で、こっぴどく裁かれ罰せられないかぎり、リアが現実に根差す認識を手にすることはできなかろう、賢い道化はそう判断したのです。
リアの悲劇は、脱がされるところにありました。
それを象徴するのが護衛兵の削減でした。
劇の後半に至って、脱がされる者が、脱ぐことを知るのです。
この瞬間、リアの悲劇が終わるんですね。
痛ましくはあるけれども、劇は喜劇に転じます。
この世は、こんな摩訶不思議な仕組みでできていて、その不思議な悲喜劇の神秘の世界から、命あるものがこの世に送り出されてくるようです。
生物的な命は、社会的な意味を担って、いのちを生きることになるんでしょうが、王冠を被ろうと、裸の乞食であろうと、野性のいきものであろうと、平等に繋がり合っているという意味からすれば、同じ命なんですね。
エドガーは、そのことにリアより一足早く気付いた人間でした。
リアの復権を願うあまりに、嵐の荒野に足を踏み入れてもなおそのことに気付かなかったケントは、リアの行動の軌跡を追って長い旅路に就かなければなりません。
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