シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
シェイクスピアの版本

 

 

 

総選挙最大の争点がいつの間にか北朝鮮問題にすり替えられています。

 

外交・安保問題を突き付けられると私たち日本人はもうお手上げ、独裁国家はいずれ崩壊するとか、圧力をかけるとか、米国の軍事力で何とかなると期待する、日本人のこの現実逃避癖を衝いて政権与党は自分がこの国を守ると叫ぶ、現状打破能力のなさを棚に上げて、勇ましい言葉に置き換えて。

 

平和はあの手この手を尽くして勝ち取るもの、軍事力でなく外交力で、言葉のかぎりを尽くして、誠意ある態度で対立に向き合い、何が対立をもたらしているかを見定める、そんな努力もしないで、思い上がったついでに憲法を変えなければ国を守れないなどと言い出す。

 

平和憲法に生きる気概はすでになく、国民も不勉強で深く考えないから、いとも簡単に国家主義的プロパガンダに乗せられてしまう。

 

シェイクスピアは政治学の教科書なのだが、いい加減なつまみ食いしかしないから何一つ身につかない、言葉を尽くすことに活かされない、異質なものとの付き合いに活かされない、シェイクスピアの応用だか何だか知らないが、うさん臭い劇場型政治が蒸し返されるのみ。

 

国難だ希望だとの長広舌にうんざりしながらシェイクスピアのテクストについて再考しています。

 

版木に彫って印刷した書物のことを版本(はんぽん)と言います。

 

シェイクスピア戯曲の原本には大型本のフォリオ(Folio、印刷用全紙を1回折って2葉4ページにした書物のつくり)と小型本のクォート(Quarto, 四つ折り本)があります。

 

全紙の大きさは一定しており、縦34僉横23 ほど。

 

1623年に出版されたシェイクスピア全集はフォリオ版で、ファースト・フォリオ(First Folio)とも。

 

編者のグローブ座幹部座員ヘミングとコンデルは、フォリオ版冒頭の献辞に「尊敬すべき友人であり同僚であったわれらのシェイクスピアのおもいでを永遠のものとするために」(to keepe the memory of so worthy a Friend, and Fellow aliue, as was our Shakespeare)、「真正な原本に基づいて刊行」(Published according to the True Originall Copies)すると記しました。

 

全集編纂前後に出ているクォートは単行本です。

 

シェイクスピアの戯曲のうち19作が単行本で出版され、後全集に収められましたが、そのまま再録されたわけではありません。

 

綴りや句読点、符号に多くの異形が見られ、印刷時の誤字、脱字などに加筆、修正、削除いろいろと。

 

『リア王』、『リチャード3世』、『ハムレット』、『オセロ』、『トロイラスとクレシダ』等にはクォートとフォリオの間にかなりの差異が。

 

『リア王』などは、『リア王物語』(The Historie of King Lear1608 年出版の第1クォート)と、『リア王の悲劇』(The Tragedy of King Lear1623年出版の第1フォリオ)が並び立ち、作品の不確定性を際立たせた時期がありました。

 

現代的な偏見や先入見を排して異形の原綴りを現代綴り化して、間や沈黙、呼吸、つまり句読点や感嘆詞、カッコやダッシュ、疑問符などをどう校訂処理するかのテクスト編纂の問題には悩ましいものがありました。

 

綴字がシェイクスピアの指示であるか、筆耕あるいは植字工の介入であるか、これまでのテクスト編纂者は、朗誦性とリズム感を伴って場を占め空間に舞うせりふを想定したのです。

 

シェイクスピアはほとんどト書き(場の状況説明、トランペットと太鼓の効果音、登場人物の動きを指定)を残さなかったにもかかわらず、たぶんこうだろうということで付け加えられたり、加除訂正、句読点が多用されて、呼吸が乱れて一息に一気に朗読することができないことにも。

 

場の連続を旨とする劇作家の意図はこうして無視され、恣意的にすべての作品が5幕の幕割りにされ、ファースト・フォリオ収録のシェイクスピアの戯曲36篇、そのうちフォリオだけに収録されクォートにない戯曲が17篇あったことに。

 

王政復古により演劇は復活しましたが、上演されない演目があったり、上演されてもオペラ化されたりして、テクストに大幅な改変が施されました。

 

特定のコンテクスト(背景、状況、文脈、前後関係)で読まれる先入見が増幅し再生産され、かなりの個所が改訂されて9年後の1632年にSecond Folio が出版されました。

 

時代の気分に合わせて社会の中枢権力を握った中産階級のエンターテインメントとして再編成されたのです。

 

時代考証を忠実にエリザベス朝の衣装や装置が大掛かりに使われ、その分テクストが大幅にカットされ変更されました。

 

シェイクスピア劇が観るものでなく読まれる古典という捉え方になったのもこの頃。

 

1663年にThird Folio が出て、クオートで刊行されていた7篇がシェイクスピア作として加えられました。

 

このうち『ペリクリーズ』のみ正典に加えられて今日に至るという経緯を辿って、シェイクスピアの戯曲は全部で37篇ということになりました。

 

と言っても、現在、『血縁の2貴公子』(The Two Noble Kinsmen)と『エドワード3世』(Edward III )も一部シェイクスピアの作ではないかと言われてもいて、これらを入れると39作品に。

 

クォートとフォリオのどちらを校訂(本文を他の伝本と並べて手を加えて正すこと)の底本とするかが問題とされて、シェイクスピアが現代劇として再生するのは20世紀初頭になってからです。

 

演出は、演技も、できるかぎりシェイクスピアの原作に忠実に、装置や衣装は現代風に、ローレンス・オリヴィエやジョン・ギールグッドといった役者、ピーター・ブルックやピーター・ホールといった演出家によって同時代人としてのシェイクスピアが甦りました。

 

映画にもなり、多くの言語に翻訳され、アジア、アフリカ、中南米で翻案劇が上演され、中国語やタガログ語による翻案劇やヒンズー語の映画が国際演劇祭で上演されるようになりました。

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが来日公演し、新しい日本語訳のシェイクスピアがロンドンで上演され、シェイクスピアの顔が紙幣やクレジットカード等に使われ、シェイクスピア全集は教養人なら誰でも座右に置いておきたいベストセラーとなり、ファースト・フォリオがインターネット上に公開されました

 

シェイクスピアは、いつでも、どこでも、誰にでも、どのようにでも開かれて、私たちとともに常に現在形で目の前に存在するようになりました。 

 

多様な人間関係を愛憎の激しさの極地において描きながら、置かれた状況に抗って常に境界を侵犯しようとするシェイクスピアの意志が時代を経るごとに拡散、連続して、変化する色となりました。

 

七色の虹、つまりどこにも色の境はないけれども、劇作家の思いは7つの色に線引きされて、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の人間観に。

 

色の違いがあるように切り取ってはみせるが、一続きの虹色として繋がっている、曖昧なところで線を引きながらも、それぞれの人間を個として自立させ、この色は排除しようなどとは考えない。

 

シェイクスピア劇が普遍的であると同時に特殊、グローバルであると同時にローカルであると意識させられるのは、シェイクスピアが古今東西の雑多な種本を換骨奪胎した翻案劇でありながら、時代と社会を越えて人とこの世に繋がっているからです。

 

曖昧模糊とした個の発する言葉にこだわり、言葉に信頼を置き、裏切られ、疑い、否定し、否定され、言葉の海でもがき苦しんで、言葉を超える存在となったシェイクスピア。

 

グローバルに肥大するシェイクスピアですが、版本は安定したものではなく、読む上で何が正解かというものはない。

 

そうではあっても、ファースト・フォリオをテクストに声を出して朗読し、境界侵犯性を肌に感じて個を越え他者性に染まる試みは可能、声が七色になって一つになるのです。

 

ファースト・フォリオがコンテクスト(一緒に織られたものの意、すなわち現代社会の背景や状況との繋がり)のなかに立ち上がり、幻想が増幅され再生産されるアプローチにそのときどきの時事問題が顔を出し、テクストとコンテクストの間を往還させられるのは、シェイクスピアの同時代性、境界を横断する侵犯性の面白さがあるから。

 

二項対立関係に制約された登場人物たちの関係が過激に結び合わされ、残酷に引き裂かれる、そうでありながらも作品はぜんたいとして障壁を越える可能性を垣間見せてくれる。

 

私たちがこの世を常に変革期、過渡期と捉えるのは、置かれている状況のなかで自分という存在を規定するさまざまな境界を意識させられ、それを乗り越えて行くことが務めだと自覚させられるから。

 

選挙情勢急変のなか、奮起して原綴りで朗読してみませんか。

 

一人芝居の朗読行為、言葉に息を通わせることができれば学びの達成感があり、シェイクスピアが身近かな存在に。

 

日本人の現状認識の甘さ、現実逃避、ぎくしゃくした人間関係と国際関係を正す言葉の未熟さも、シェイクスピアの原文朗読で少しは克服できるんじゃないでしょうか、たぶんね。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読         

http://shaks.jugem.jp/

 

 

| - | 10:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
バルコニー・シーンー『ロミオとジュリエット』2幕2場

 

安全保障と社会保障の危機を利用しての国難突破解散?

 

国難状態にしたのは「ふり」政治ではなかったのか。

 

どんな社会にあっても装わずに声を発する者はいます。

 

恋する者の掛け値なし、嘘偽りのない思慕の情から。

 

時・状況を越える歓喜の瞬間が訪れるが、恋は闇、恋は盲目、それだけに永遠に輝くのでしょう。

 

カオス化した社会のヴェローナ、バルコニーの冒頭シーン、青白い月の光に照らされて浮かび上がるキャプレット家の夜の庭、さきほどまでマキューシオの騒々しいからかいの声が垣根越しに。

 

暗い木陰に身を潜めてロミオが窓から漏れてくる光を見上げています。

 

 

ロミオ 他人の傷をあざ笑っていろ痛みを知らないやつは、

 待て、何だあの窓からこぼれる光は?

 向こうは東、ジュリエットは太陽だ、

 昇れ太陽妬み深い月を消してくれ、

 嘆いてすっかり病み蒼ざめているな、

 月に仕える乙女の君が主人よりはるかに美しいから。

 仕えるのはやめたほうがいい女神は嫉妬深い、

 女神の侍女の揃いのお仕着せは青っ白い緑色、

 道化以外は着やしない、脱ぎ捨ててくれ。

 俺の貴婦人、ああ俺の恋人、ああ分かってくれ、

 口をきいたぞ、いや何も言っていない、どうでもいいか?

 目がものを言っているから、答えてやろう。

 厚かまし過ぎるな相手は俺じゃないんだから。

 大空で一番美しい二つの星が、

 何かの用でよそへ行きあの人の目に頼んでいるのか、

 代わりに光っていて戻ってくるまでと。

 あの目が夜空にあって、星があの顔に宿れば、

 頬の輝きが星たちを恥じ入らせるだろう、

 日の光に輝くランプのように、あの人の目は星座になり、

 空いっぱいに光を溢れさせ、

 鳥たちが囀り出すだろう、もう夜ではないと思って。

 首をかしげて頬を片手に預けているな。

 あああの手を包む手袋だったら、

 あの頬に触れられる。

ジュリエット ああ。

ロミオ 何か言ったぞ。

 ああもう一度言ってくれ輝く天使よ、君の姿は

 頭上はるか闇夜にもまばゆい、

 翼ある天使そのもの

 驚いて思わず後ずさりして

 目を見張って振り仰ぐ人間たちを尻目に、

 ゆったり流れる雲に乗り、

 大空を渡って行く天使。

ジュリエット ああロミオロミオ、どうしてロミオなの?

 お父さまをお父さまと思わずに名前を捨ててちょうだい。

 それが無理なら、私の恋人だと誓って、

 そうすれば私はもうキャピュレットではない。

ロミオ もっと聞いていようか、いまの言葉に応えようか?

ジュリエット 敵はあなたの名前だけ。

 あなたはあなた、モンタギューではなくて、

 モンタギューって?手でもなければ足でもない、

 腕でも、顔でもない、ああほかの名前に

 男の方の。

 名前って何?薔薇と呼んでいる花を、

 ほかの名前で呼んでも甘い香りに変わりはない、

 ロミオだって同じ、ロミオって呼ばれなくても、

 非の打ちどころのないお姿に変わりはない、

 ロミオって名前がいけないの、名前を捨てて、

 そしてあなたの体でない名前に代わって、

 私のすべてを受け取って。

ロミオ 言葉どおりに受け取りましょう。

 恋人とだけ呼んでほしい、それが僕の新たな洗礼、

 いまからはもうロミオでなくなります。

 

                 2幕2場 

 

 

Rom. He ieasts at Scarres that neuer felt a wound,

 But soft, what light through yonder window breaks?

 It is the East, and Iuliet is the Sunne,

 Arise faire Sun and kill the enuious Moone,

 Who is already sicke and pale with griefe,

 That thou her Maid art far more faire then she:

 Be not her Maid since she is enuious,

 Her Vestal liuery is but sicke and greene,

 And none but fooles do weare it, cast it off:

 It is my Lady, O it is my Loue, O that she knew she were,

 She speakes, yet she sayes nothing, what of that?

 Her eye discourses, I will answere it:

 I am too bold 'tis not to me she speakes:

 Two of the fairest starres in all the Heauen,

 Hauing some businesse do entreat her eyes,

 To twinckle in their Spheres till they returne.

 What if her eyes were there, they in her head,

 The brightnesse of her cheeke would shame those starres,

 As day-light doth a Lampe, her eye in heauen,

 Would through the ayrie Region streame so bright,

 That Birds would sing, and thinke it were not night:

 See how she leanes her cheeke vpon her hand. 

 O that I were a Gloue vpon that hand,

 That I might touch that cheeke.

Iul. Ay me.

Rom. She speakes.

 Oh speake againe bright Angell, for thou art

 As glorious to this night being ore my head,

 As is a winged messenger of heauen

 Vnto the white vpturned wondring eyes

 Of mortalls that fall backe to gaze on him,

 When he bestrides the lazie puffing Cloudes,

 And sailes vpon the bosome of the ayre.

Iul. O Romeo, Romeo, wherefore art thou Romeo? 

 Denie thy Father and refuse thy name:

 Or if thou wilt not, be but sworne my Loue,

 And Ile no longer be a Capulet.

Rom. Shall I heare more, or shall I speake at this?

Iu. 'Tis but thy name that is my Enemy:

 Thou art thy selfe, though not a Mountague,

 What's Mountague? it is nor hand nor foote,

 Nor arme, nor face, O be some other name

 Belonging to a man.

 What? in a names that which we call a Rose, 

 By any other word would smell as sweete,

 So Romeo would, were he not Romeo cal'd,

 Retaine that deare perfection which he owes,

 Without that title Romeo, doffe thy name,

 And for thy name which is no part of thee,

 Take all my selfe.

Rom. I take thee at thy word:

 Call me but Loue, and Ile be new baptiz'd,

 Hence foorth I neuer will be Romeo.

Iul. O Romeo, Romeo, wherefore art thou Romeo?

 Denie thy Father and refuse thy name:

 Or if thou wilt not, be but sworne my Loue,

 And Ile no longer be a Capulet.

 'Tis but thy name that is my Enemy:

 Thou art thy selfe, though not a Mountague,

 What's Mountague? it is nor hand nor foote,

 Nor arme, nor face, O be some other name

 Belonging to a man.

 What? in a names that which we call a Rose,

 By any other word would smell as sweete,

 So Romeo would, were he not Romeo cal'd,

 Retaine that deare perfection which he owes,

 Without that title Romeo, doffe thy name,

 And for thy name which is no part of thee,

 Take all my selfe. 

Rom. I take thee at thy word:

 Call me but Loue, and Ile be new baptiz'd,
 Hence foorth I neuer will be Romeo.
Iuli. What man art thou, that thus bescreen'd in night
 So stumblest on my counsell?
Rom. By a name,
 I know not how to tell thee who I am:
 My name deare Saint, is hatefull to my selfe,
 Because it is an Enemy to thee,
 Had I it written, I would teare the word.
  Vestal = Virginal    though = even if    owes = owns    doffe  = shed

 

 

いいですね、政治哲学、政策理念を問う前に朗読してみよう、ロミオになり、ジュリエットにもなって。

 

人を愛することがどういうことかに思い至れば、あるべき社会の姿が見えてくるかもしれません。

 

貧窮が人を追い詰めない、争いを招き寄せない、死の影がまとわりつかない、人を信頼し愛することができる、そんな社会の実現に向けて私たちはどれだけエネルギーを注入できるでしょうか。

 

解散を言葉重視の政権運営に引き戻すチャンスと捉えましょう。 

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読

shaks1564@gmail.com

 

 

| - | 06:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
シェイクスピア役者

   

 

ジャージャージャー、いつまでも暑苦しいんだよね、ミーンミンミンミーン、翅をこすり合わせてよくこんな音を、ツクツクホーシツクツクホーシ、あ、うん、わかるよ、ウンヨースウンヨース?わかんねえ、カーナカナカナカナ、悲しくなるね、夏ももう終わりか。

 

ヒグラシの鳴き声とともに聴こえてきた28日臨時国会冒頭の衆院解散、仕事人内閣が何も仕事しないのに、森友・加計問題の説明もないのに、国会審議拒否、まさかとは思ったが、こんなわけの分からない解散ができるのは世界でこの国だけじゃないの、英国では絶対しないし、政治の私物化、解散権の乱用、弾道ミサイルをぶっ放したつもりの暴発解散じゃないのカナ、カーナカナカナカナ。

 

夏の盛りも過ぎたところで、ヴィクトリア王朝時代、シェイクスピアを上演する劇場も、上演背景も、ますます手の込んだわけの分からないものに。

 

上演用の台本も、役者の演技を目立たせるために独白をカット、アクション重視。

 

『アントニーとクレオパトラ』の海戦場面などはスピーディーに処理されなければならないのに、荘重なリアルすぎる舞台装置とアクションのスタイルづくりのためにペースは乱れたらしい。

 

頻繁にシーンが変わるため、凝った背景を転換すれば、そのたびにペースが乱れ、上演は度々中断する事態に。

 

そうなると観客が上演に耐えられる長さに上演時間を調整しなければならなりません。

 

せりふはさらにカットされ、シェイクスピア劇はカットなしでは上演できないという原則が広く受け入れられるように。

 

そんななか、サラ・シドンズ(Sarah Siddons,1755-1831)とその弟ジョン・ケンブル(John Philip Kemble,1757—1823)の役者活躍がありました。

 

ケンブルはコリオレーナスが最大の当たり役で、姉と一緒に『マクベス』を朗詠調で演じてシェイクスピア役者と言われるようになりました。


シャイロックを喜怒哀楽に満ちた人間味溢れる人物として演じた最初の役者がエドマンド・キーン(Edmund Kean,1787-1833)です。

 

喜劇の一部をクローズアップすれば悲劇になることにキーンも観客も気がついたのです。

 

以後『ヴェニスの商人』はもっぱらシャイロックの芝居として演じられるようになり、この作品が友愛と恋愛を描く弦楽四重奏の喜劇として上演された例を私は知りません。

 

続いてヘンリー・アーヴィング(Sir Henry Irving, 1838-1905)という当たり役のシャイロック役者が登場。

 

共演者エレン・テリー(Ellen Terry,1847-1928)とともに、額縁舞台、凝った舞台背景、華麗な装置、カットされた台本によって演じられる最盛期(1847—1928)のシェイクスピア役者として君臨します。

 

エレン・テリーはアーヴィングの相手役を務め、ポーシャやマクベス夫人を演じました。

 

二人は観客の目に訴えた、ということはつまり、せりふを聴いて想像するのでなく、視覚重視の上演にシフトしたということです。

 

批判する人はいましたが、観客の嗜好に合わせて圧倒的な人気を誇り、アーヴィングは役者として初のサー(knight)の称号を、エレンにはデイム(Dame、knight に叙せられた女性の敬称)の称号が与えられました。

 

エレンの息子がロシアのスタニスラフスキー(Konstantin Alekseevich Stanislavsky,1863-1938) と『ハムレット』を共同演出した舞台理論家ゴードン・クレイグ(Edward Gordon Craig, 1872-1966)です。

 

シェイクスピアの原典、張り出し舞台、背景のない流動的な場面転換に回帰するという動きも起こりはしましたが、上演の主流は歴史に忠実な衣装やセットを用いて絵画的効果を追求して観客の目を楽しませる、つまり見せる芝居というものでした。

 

時間や異なる文化の制約を超越する普遍的な天才としてのシェイクスピア崇拝を生み出したのが彼ら役者とロマン主義文学者たち。

 

シェイクスピア劇の欠点とされた場所・時間・筋立ての不一致が逆に劇作家の天才ぶりを証明するものと考えられたのです。

 

それはいいのだが、こんなベタ褒めロマン批評のおかげで、シェイクスピアは舞台上で演じられる劇としてでなく、書斎で読まれ啓蒙されるものとして、読者の叡智を総動員して解釈されるべき詩作品として、崇め敬われる存在となってしまった。

 

読む戯曲としてのシェイクスピアが強調されたことにより、舞台上ではさまざまな矛盾を示すかに見える登場人物があたかも自立したひとつの人格のように取り扱う性格批評が起こり、20 世紀の批評や舞台に影響を与えることになりました。

 

忘れてならないのは、英国によるインドやカリブ海諸国、アフリカの帝国主義支配が確立したとき、植民地における言語教育を根幹で支えたのがシェイクスピア劇であり、シェイクスピア役者であったことです。

 

彼らの演技による英語教育のなかから素養に優れた現地人官僚が育ち、ポストコロニアルの時代が訪れたとき彼らは英国本国の言語文化芸術の中核を担うことになりました。

 

ロンドンやストラットフォードで観劇して目を見張ったのは、植民地で育った彼らシェイクスピア役者の活躍でした。

 

強烈な印象として残っているのが、スワン劇場で観た『タイタス・アンドロ二カス』のアーロン役の漆黒の肌とせりふと動き。

 

考えてもみてほしい、土着の言語と文化の伝統を踏みにじられ、宗主国英国の言葉、すなわちシェイクスピアイングリッシュで自らを語るしかなかった人びとの苦悩を、押し付けられた言葉を自己表現の武器に転じた彼らの苦闘と栄光の歴史を。

 

彼ら彼女らはシェイクスピアを植民地主義を延命させるものとして糾弾しながらも、シェイクスピアの世界を新たな命の源泉として自らを変革させる境界侵犯を試みたのです。

 

政治も言葉です。

 

あるべき政治システムに思いを巡らせば、議論しない参議院は無用の長物、憲法9条のような国民を惑わす条文も不要、と私は思います。

 

議員さんには言葉を尽くして心からの議論をしてもらわなければなりません。

 

内閣府が行政の人事権を握り、権力が国民を監視して、自由かつ多様であるべき政治活動が、いや私たちの心の自由が狭く窮屈になってきました。政治家の言葉に善悪の見定めはつけ難く、正邪の判断もつけ難い。

 

きれいが汚い、汚いがきれいなのが現実であれば、美的判断もつけ難く、通り一遍の決着はつけられそうにありません。

 

この世はメビウスの帯のごとくにひとつにつながっていて、表裏あり、矛盾があります。

 

そんななか、提起された政界再編の動きの本質解明、あるべき社会システムについての最終判断が私たちの1票に委ねられようとしています。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読教室                

http://shaks.jugem.jp

 

 

 

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