シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
掘っ立て小屋―『リア王』3幕2場

 

昭和30年(2018年)、あけましておめでとうございます。

 

小寒が5日、大寒が20日で、まだしばらく寒さが続き、布団からさっと出にくくなっていますが、それでも少しづつ日は長くなってきていますね。

 

昨年は天下取りのあっと驚く術策がたったのひと一言であっさりひっくり返ったりして、あらためて言葉の恐ろしさを思い知らされました。

 

大相撲を含めてスポーツ界も Might is right(勝てば官軍)になって、こんなことでいいのかというちょっとお寒い気分混じりで越年。

 

空っ風の吹く寒い夜は、寒さを凌ぐことのできる場と身を包む衣類が必要、どうしてもなくてはならないのはこの二つくらいのものなんですね。

 

リアの怒りと憎悪は、必要と思われた王の称号と供の騎士が満たされないために上の娘2人にはね返り、拡大され増幅されて、その乱反射に身を晒して怒りと憎悪で気も狂わんばかり。 

 

 

リア 頭が変になりそうだ。

 おい阿呆。どうだお前さんは?寒いか?

 わしは寒いぞ。その藁床はどこにある、え?

 貧乏ってやつは不思議なもんだな、

 卑しいものを尊いものに変えてくれる。さ、小屋だ。

 哀れな阿呆、よなあ、わしにも憐れみはある

 気の毒なやつだ。

道化 頭に知恵の足りない奴は、

 こりゃこりゃ、風吹き雨が降る、

 運が悪いと諦めな、

 毎日が雨降りでもさ。

リア そうだな。さ、その小屋に。

 

              3幕2場

 

 

Lear. My wits begin to turne.

 Come on my boy. How dost my boy? Art cold?

 I am cold my selfe. Where is this straw, my Fellow?

 The Art of our Necessities is strange,

 And can make vilde things precious. Come, your Houel;

 Poore Foole, and Knaue, I haue one part in my heart

 That's sorry yet for thee.

Foole. He that has and a little-tyne wit,

 With heigh-ho, the Winde and the Raine,

 Must make content with his Fortunes fit,

 Though the Raine it raineth euery day.

Le. True Boy: Come bring vs to this Houell.

 

  Art  i.e.Skill, Alchemy      vilde = vile     Knaue = Boy

    wit = sense  

  

 

荒野で雷雨に打たれれば背に腹は代えられない。

 

いままで固い屋敷のなかで周囲から凄いの、偉いの、立派だのと言われて歪んだプライドを持って生きてきた、自分以外のことばかり気にかけ他人からどう評価されるかという基準で生きてきた、そのリアが嵐の荒野でプライドも固い枠も基準もすべて剥がされてしまった、その直後の自問、述懐です。

 

身も心も冷えるから掘っ立て小屋に入って休みたい、いま自分に必要なのは雨風を凌ぐことのできる掘っ立て小屋だという現実認識、自分の冷えた人生、狂い死にしそうなわが身から絞り出された嘘偽りのない声。

 

抗いようのない現実を前にしてリアは気づいた、不足を嘆くばかりでは命は守れない、リアは思いもよらない新しい認識に到達したのです、貧乏は不思議なものだ、卑しいものを尊いものに変えてくれると。

 

雨風の難を逃れる道筋を照らす歌、雨風を凌ぐためには雨風に向かって吠えるのでなく、ボロい掘っ立て小屋をありがたいと思うだけの話なのです。

 

たったこれだけの一瞬の気付きに過ぎませんが、ざわつく心もおさまり、自分を悪しざまに言う道化への同情心も芽生え、リアにとって大きな開眼となったのでした。

 

そう、生きて行く上で必要なのは自分の人生、自分の命に対する責任だけです。

 

何があってもどんな場に置かれても失ってならないものを大事にしていい年を迎えましょう。 

 

 

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法律家の頭―『ハムレット』5幕1場

 

早や師走、何とも落ち着かないモヤモヤが漂う年の暮れ。

 

総選挙騒動後の森友学園の国有地値引きの根拠不十分問題、タダ同然に手に入れさせた忖度的悪徳取引に対する司法判断はない。

 

前代未聞の横綱の土俵上のルール違反、弓取り式が行われるまで仁王立ちしてもう一度相撲をとらせろと駄々を捏ねた問題。

 

他の競技種目ならこの時点でルール違反、失格、出場停止処分になるが、審判部も、日本相撲協会も、横綱審議会も、そうした判断をしない。

 

日本の政治は、相撲は、これでいいのか。

 

政治家は法律を知らなければならない。

 

力士もいろいろ知らなければならない。

 

相撲は神事であり、芸能であり、スポーツである、日本の伝統文化としての相撲道とルール・マナーを心得ていなければならない、ましてや横綱は。

 

法意識、つまり社会常識、正義、モラルばかりでなく、美意識がきちんと備わっていなければ、組織、機構に携わる者としては失格なのだ。

 

国会運営は、相撲の運営は、組織、機構として成り立っているのか。

 

内閣総理大臣はどうか、横綱はどうか、美しいか、見苦しくはないか。

 

 

ハムレット そらまた一つ。今度のは

 法律家の頭か?お得意の詭弁はどうした?

 屁理屈は?判例は?所有権は、あの手この手の駆け引きは?

 こんな乱暴な奴にこづかれてどうして黙っている

 泥だらけのシャベルで頭を、訴訟を起こしたらどうなんだ、

 殴打罪で?ふむ。こいつめ

 生きていたときに土地を買い占めたな、借金の証書、弁済保証の

 担保、形式的和解譲渡、二重証人申請、名目変更手続きで。

 慣れ合い譲渡、慣れ合い訴訟、

 土地買い占めのなれの果てがこれか?

 名目変更手続きで手に入れた土地が、

 細かい粒の泥の頭骸骨になったか?

 証人を申請しても保証はしてもらえまい、二重証人の

 申請をしても、せいぜい噛み合わせた程度の大きさしかない

 甲乙二通の歯形契約証書だろう?肝心の土地譲渡証書は

 保管できっこないこんな箱では。土地所有権者一人で

 もう一杯じゃないのか?え?

 

                5幕1場

 

 

Ham. There's another: why might not that bee the

 Scull of a Lawyer? where be his Quiddits now? his

 Quillets? his Cases? his Tenures, and his Tricks? why

 doe's he suffer this rude knaue now to knocke him about

 the Sconce with a dirty Shouell, and will not tell him of

 his Action of Battery? hum. This fellow might be in's

 time a great buyer of Land, with his Statutes, his Recog-

 nizances, his Fines, his double Vouchers, his Recoueries:

 Is this the fine of his Fines, and the recouery of his Reco-

 ueries, to haue his fine Pate full of fine Dirt? will his

 Vouchers vouch him no more of his Purchases, and dou-

 ble ones too, then the length and breadth of a paire of

 Indentures? the very Conueyances of his Lands will

 hardly lye in this Boxe; and must the Inheritor himselfe

 haue no more? ha?

 

    Quiddits = Subtle distinctions    Quillets = Quibbles    Tenures = Property

       titles    Sconce = Head    Action of Battery = Legal prosecution for assaul

    Recoueries = Peofits    fine = subtle   Fines = finre-graind 「形式的和解

      譲渡」  Indentures 「歯形契約書」    Inheritor = possessor

 

  

ハムレットが法やルールをよく心得る大人としてとして登場しています。

 

けれどもこんな法律専門用語を駆使して皮肉を弄しても、この世の緩みを正すことはできない。

 

法律をどれほど頭に詰め込んでも、考えることが土地を買い占めること、勝つことであるならば、頂点に上り詰めれば何でも言える、何でもできると考えるだろう。

 

国政は、国会・内閣・裁判所がそれぞれの役割を持ち、分担して進められる。

 

権力が1か所に集中したりその力が強くなり過ぎないように、立法・行政・司法のそれぞれが独立して、お互いに抑え合い釣り合いをはかっているのです。

 

選挙で選ばれた代表は議論を尽くしてみんなの暮らしに関わる取り決めや国の政治を進めていく、それが国会。

 

法案は衆参両院で民主的多数決によって議決され、法律として成立、予算を使い法律に従って国民の暮らしを支える仕事を行なう、そこが内閣。

 

争いや犯罪が起こったら憲法や法律に基づいて判断し解決する仕事をする、そこが裁判所。

 

以上が民主主義政治の基本的な考え方としてあるが、いまの政権が進める高度成長よもう一度政策と私たちが求めるお国柄、人のしあわせと生命の尊厳追求の政策との間に乖離があり過ぎる、矜持なく、理想なく、緩んでいる。

 

土俵上の横綱の立ち居振る舞いとフアンが期待する日本固有の相撲美学との間に落差があり過ぎる。

 

首相と横綱の自己流の法とルール解釈は自己本位過ぎ、彼らの露骨な自画自賛のパフォーマンスに私たちは安易に賛同し、自ら共犯者関係を築いてしまう。

 

法、ルール、礼儀作法の理解力がなく、日本固有の独自性の放棄、慣れ合い、まあまあの寛容の精神を発揮して万歳三唱してしまう、何という体たらくであろうか。

 

時代が変われば何もかも変わっていいというものではない。

 

隔靴掻痒感は深まるばかり。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読                  

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| - | 21:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
シェイクスピアの版本

 

 

 

総選挙最大の争点がいつの間にか北朝鮮問題にすり替えられています。

 

外交・安保問題を突き付けられると私たちはもうお手上げ、独裁国家はいずれ崩壊するだろうとか、経済的圧力を強めるとか、米国の軍事力で何とかなるなどと期待する。

 

日本人のこの現実逃避癖を衝いて政権与党は自分がこの国を守ると叫ぶ、現状を打破する外交能力のなさを棚に上げて、勇ましい言葉に置き換えて。

 

平和はあの手この手を尽くして勝ち取るもの、軍事力でなく外交力で、言葉のかぎりを尽くして誠意ある態度で向き合い、何が対立をもたらしているかを見定める、そんな努力もしないで、思い上がったついでに憲法を変えなければ国を守れないなどと言い出す。

 

平和憲法に生きる気概などすでになく、国民も不勉強で深く考えないから、いとも簡単に国家主義的プロパガンダに乗せられてしまう。

 

シェイクスピアは政治学の教科書であるが、いい加減なつまみ食いしかしないから何一つ身につかない、言葉を尽くすことに活かされない、異質なものとの付き合いに活かされない、シェイクスピアの応用だか何だか知らないが、うさん臭い劇場型政治が蒸し返されるのみ。

 

国難だ希望だとの長広舌にうんざりしながらシェイクスピアのテクストについて再考しています。

 

版木に彫って印刷した書物のことを版本(はんぽん)と言います。

 

シェイクスピア戯曲の原本には大型本のフォリオ(Folio、印刷用全紙を1回折って2葉4ページにした書物のつくり)と小型本のクォート(Quarto, 四つ折り本)がある。

 

全紙の大きさは一定しており、縦34僉横23 ほど。

 

1623年に出版されたシェイクスピア全集はフォリオ版で、ファースト・フォリオ(First Folio)とも。

 

編者のグローブ座幹部座員ヘミングとコンデルは、フォリオ版冒頭の献辞に「尊敬すべき友人であり同僚であったわれらのシェイクスピアのおもいでを永遠のものとするために」(to keepe the memory of so worthy a Friend, and Fellow aliue, as was our Shakespeare)、「真正な原本に基づいて刊行」(Published according to the True Originall Copies)すると記しました。

 

全集編纂前後に出ているクォートは単行本で、17作が単行本で出版され、後に全集に収められました。

 

ファースト・フォリオ収録のシェイクスピアの戯曲は36篇、ただしそのまま再録されたわけではありません。

 

綴字がシェイクスピアの指示であるか、筆耕あるいは植字工の介入であるか、句読点、符号に多くの異形が見られ、印刷時の誤字、脱字もあり、加筆、修正、削除いろいろ。

 

『リア王』、『リチャード3世』、『ハムレット』、『オセロ』、『トロイラスとクレシダ』等にはクォートとフォリオの間にかなりの差異が生まれました。

 

『リア王』は『リア王物語』(The Historie of King Lear1608 年出版の第1クォート)と、『リア王の悲劇』(The Tragedy of King Lear1623年出版の第1フォリオ)が並び立って、作品の不確定性を際立たせた時期がありました。

 

現代的な偏見や先入見を排して異形の原綴りを現代綴り化し、間や沈黙、呼吸、つまり句読点や感嘆詞、カッコやダッシュ、疑問符などをどう校訂処理するかのテクスト編纂の問題には悩ましいものがあったのです。

 

これまでのテクスト編纂者は、朗誦性とリズム感を伴って場を占め空間に舞うせりふを想定したのでしょうが、シェイクスピアはほとんどト書き(場の状況説明、トランペットと太鼓の効果音、登場人物の動きなどを指定)を残さなかったにもかかわらず、たぶんこうだろうということで付け加えられたり、加除訂正、句読点が多用され、呼吸が乱され、一息に一気に朗読することができないことにも。

 

そんなこんなの経過もあって、場の連続を旨とする劇作家の意図は無視され、恣意的にすべての作品が5幕の幕割りになりました。

 

特定のコンテクスト(背景、状況、文脈、前後関係)で読まれてかなりの個所が改変され、9年後の1632年にSecond Folio が出版されました。

 

上演されない演目があったり、上演されてもオペラ化されたり、時代考証を忠実にエリザベス朝の衣装や装置が大掛かりに使われたり、その分テクストが大幅にカットされたり、変更されたり、時代の気分に合わせて社会の中枢権力を握った中産階級のエンターテインメントとして再編成されたのです。

 

シェイクスピア劇が観るものでなく読まれる古典という捉え方になってきたのもこの頃です。

 

1663年にThird Folio が出てクオートで刊行されていた7篇がシェイクスピア作として加えられましたが、このうち『ペリクリーズ』のみ正典に加えられて今日に至っています。

 

従って、シェイクスピアの戯曲は全部で38篇ということに。

 

と言っても、現在、『血縁の2貴公子』(The Two Noble Kinsmen)と『エドワード3世』(Edward III )も一部シェイクスピアの作ではないかと言われてもいて、これを入れると39作品ということになります。

 

クォートとフォリオのどちらを校訂(本文を他の伝本と並べて手を加えて正すこと)の底本とするかがずーっと問題にされてきて、シェイクスピアが現代劇として再生するのは20世紀初頭になってから。

 

演出は、演技も、できるかぎりシェイクスピアの原作に忠実に、装置や衣装は現代風にと、ローレンス・オリヴィエやジョン・ギールグッドといった役者、ピーター・ブルックやピーター・ホールといった演出家によって同時代人としてのシェイクスピアが甦りました。

 

映画にもなり、多くの言語に翻訳され、アジア、アフリカ、中南米で翻案劇が上演され、中国語やタガログ語による翻案劇やヒンズー語の映画が国際演劇祭等で上演されるように。

 

ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが来日公演し、新しい日本語訳でロンドンで上演され、シェイクスピアの顔が紙幣やクレジットカード等に使われ、シェイクスピア全集が教養人なら誰でも座右に置いておきたいベストセラーとなり、ファースト・フォリオがインターネット上に公開されました

 

シェイクスピアは、いつでも、どこでも、誰にでも、どのようにでも開かれていて、私たちとともに常に現在形で目の前に存在するようになったのです。 

 

多様な人間関係を愛憎の激しさの極地において描きながら、置かれた状況に抗って常に境界を侵犯しようとするシェイクスピアの意志が時代を経るごとに拡散、連続して、千変万化する色となりました。

 

七色の虹、つまりどこにも色の境はないが、劇作家の思いは7つの色に線引きされて、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の人間観に。

 

色の違いがあるように切り取ってはみせるが、一続きの虹色として繋がってもいる、曖昧なところで線を引きながらもそれぞれの人間を個として自立させ、この色は馴染まないから排除しようとは考えない。

 

シェイクスピア劇が普遍的であると同時に特殊、グローバルであると同時にローカルであると意識させられるのは、シェイクスピアが古今東西の雑多な種本を換骨奪胎した翻案劇でありながら、時代と社会を越えて人とこの世に繋がっているからです。

 

グローバルに肥大するシェイクスピアですが、版本は安定したものではなく、読む上で何が正解かというものはありません。

 

そうではあっても、ファースト・フォリオをテクストにして声を出して朗読し、境界侵犯性を肌に感じ、個を越え、他者性に染まる試みは可能です。

 

個の発する言葉にこだわり、言葉に信頼を置き、言葉への信頼を失くし、裏切られ、疑い、否定され、言葉の大海でもがき苦しむことになろうとも、そこを突き抜けて言葉を超える存在となるこおてゃできる。

 

シェイクスピアには七色になって一つになる声があるから。

 

ファースト・フォリオがコンテクスト(一緒に織られたものの意、すなわち現代社会の背景や状況との繋がり)のなかに立ち上がり、幻想が増幅され再生産されるアプローチにそのときどきの時事問題が顔を出し、テクストとコンテクストの間を往還させられることになるのは、シェイクスピアの同時代性、境界を横断する侵犯性の面白さがあるからです。

 

二項対立関係に制約された登場人物たちの関係が過激に結び合わされ、残酷に引き裂かれる、そうでありながらも作品は全体として障壁を越えて収斂する可能性を垣間見せてくれます。

 

私たちがこの世を常に変革期、過渡期と捉えるのは、置かれている状況のなかで自分という存在を規定するさまざまな境界を意識させられ、それを乗り越えて行くことが務め、自分の役割だと自覚させられるから。

 

選挙情勢急変のなか、奮起して原綴りで朗読してみませんか。

 

一人芝居の朗読行為、言葉に息を通わせることができれば学び直しの達成感があり、シェイクスピアが身近かな存在に、自分の血肉に。

 

私たち日本人の現状認識の甘さ、現実逃避、ぎくしゃくした人間関係と国際関係を正す言葉の未熟さは、シェイクスピアの原文朗読で少しは克服できるんじゃないでしょうか、たぶんね。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読         

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