シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
<< マーロウ = シェイクスピア説―『ヘンリー6世』(第3部)2幕5場 | main | ふるければふるきほどよし―『ぺリクリーズ』1幕1場 >>
エイヴォン川の白鳥

 

早いものでもう節分の季節、でもまだ外気は冷たく、寒いなかでの散歩のし過ぎは足腰を痛めることに。

 

冷えはとにかく身体によろしくない、熱を逃がさないように筋力を動かして余分なエネルギーを使いますので、全身が疲労し、血行が悪くなり、血管が細くなり、免疫力が低下する、どうぞ冷えない生活を。

 

さて、シェイクスピアが没して7年後の1623年に刊行されたファースト・フォリオの序詞に「エイヴォン川の白鳥」というシェイクスピアへの美称が掲げられました。

 

このように称えたのは、シェイクスピア没年の1616年に英国初の桂冠詩人(poet laureate)となって王室に要職を得たシェイクスピアの友人、ライバル、詩人、劇作家のベン・ジョンソン(Benjamin Jonson、1572-1637)です。

 

ジョンソンは「シェイクスピアは一つの時代の人ではなく、あらゆる時代の人である」(He was not of an age, but for all time)とシェイクスピアが死後獲得するであろう栄誉を見事に言い当てています。

 

実際シェイクスピアほど普遍性と可変性に満ちた作家はいない、あらゆる時代と社会にワイドにディープに生き続けるシェイクスピアの繁殖力と持続力の在り処はどこに?


その前にジョンソンのもう一面のシェイクスピア評価を一瞥しておきましょう。

 

シェイクスピアに賛辞を呈する一方、1行の無駄もないと称賛されるシェイクスピアのせりふを「1000行は削ってもよかった」、「彼には溢れるほどの才能があったが抑制がきかなかった」、「ラテン語もギリシア語も知らなかった」などとケチをつけています。

 

シェイクスピアの天賦の才能に対してちょっと複雑な心境になったか、自分は天才に近い秀才だがシェイクスピアは天才だと思うと穏やかでない、そんな思いが心底賛辞を呈することができなくなった理由になった、のかもしれませんね。

 

自分は役不足と考えることができない、われこそはという思いが強いと相手の顔に墨をなすりつけたくなる、相手に不足を見つけて自分と同等、いや自分より劣っていると思いたい、自己否定はできない、そんな了見か。

 

エイヴォン川の白鳥という賛辞も出来損ないの比喩ではないのか。

 

シェイクスピアは狭量、猜疑心から脱出できないハムレット、レオンティーズ、リアを描きました。

 

彼らの自己肯定感は強く、自己否定も熾烈を極めましたが、最後は人の話を聴き、決断し、実行する、結果は大いなるものの判断に委ねる心境になります。

 

牧水に、白鳥は悲しからずや、空の青、海の青にも、染まず漂うというのがありますが、悲しいかな、白鳥は空にもなり海にもなって新しい大きな命に達したいが自己を否定することができない、純粋、孤高、頑迷という名の孤立を克服しようとするが、できないんですね。

 

空の青、海の青に染まって一つになりたいのにできないから悲しい、そう、真っ白すぎて。

 

シェイクスピアは人間および人間の変貌ぶりを描き、人間が幻想を生む素地を丸ごと掘り起こして、すべてを大きな命に橋渡ししようとしました。

 

その人間観、世界観には、永続する世界と煩悩の世界、自然界と超自然界があり、この世には弁証法で動く対立軸があることを示しました。

 

そんなところを哲学者のベーコン(Francis  Bacon, 1561-1626)は「シェイクスピアの芸術美はすぐれている、そのすぐれた均整には何かしら奇異なもの(strangeness)がある」と言いました。

 

奇異なもの、現実の世界とロマンの世界の融合、遠く離れているものの連結不一致の一致、不調和の調和、結び付いているものを切り離す予測不能な手法、グロテスクとかアイロニーとか言われるもの、美しく滑稽かつ神秘的なもの、つまり奇異なるものを多元的に生み出していると。

 

こっちのほうじゃないか、シェイクスピアの賛辞としては。

 

社会での逸脱行為もその阿呆ぶりと狂気の懲罰として滑稽化して笑いのめし、観客の社会への柔軟な対応力を回復しようとする、たとえばフォールスタッフが王を演じて自分を笑いの対象にするのも、自分の未熟さ、過ち、浅はかさ、愚かさの自嘲であると同時に、その鋭い風刺力をもって自己を客観化する、その度量の深さをも示そうとした。

 

フォールスタッフが王となったヘンリーに拒絶されるのは、自己を客観視する目を失ったからでしょう。

自己を客観視できなくなったフォールスタッフは、無謬論や全能信念に陥り、盲目となり、この世の舞台でさまざまな役を演じ分けて生きて行くことができなくなったのです。

 

人は、欲望し、貪り、怒り、執着する煩悩濁から現状維持か死を覚悟しての現状打破かの岐路に立たされとき、判断ができず、世に濁るしるしとして君臨する「ふり」に走ってしまうことが多い。

 

天地におはしますよろづの神や仏を軽んじ無視することはゆめゆめなきことなりという心得がなければ、さまざまな神々がこぞってこの身を守り、うごめく邪悪なるものを近づけないようにしてくれるはずがない。

 

よろずの天の神、地の神に帰依してはならない、帰依するのは唯一 神God である、ほかに God  がいるわけがない、神は白鳥であるなどと思い込まされたりしたらどうなるか。

 

白鳥が無垢純白の詩人という純粋性を意味するものであってはなりません。

 

純粋性の称揚は、孤高、頑迷、狭隘、独善、排他、不寛容に陥ることが多いからです。

 

空に染まり海に染まり山を見る寛容性を推し進める先にも、陥穽はあるでしょう、無節操という危険な落とし穴が。

 

無節操が寛容と誤認され、独善的排他的な不寛容が純粋と誤認されるいまの社会、エイヴォン川の白鳥は純粋性を保持しつつも排他的独善性に陥らないことの象徴として輝かなければならないでしょう。

 

「存在することは変化することであり、変化することは成熟することであり、成熟することは無限に自分自身を創造することである」とフランスの哲学者ベルグソン(Henry Louis Bergson, 1859-1941)も言っています。

 

シェイクスピアはイニシャルGの God でなくgods  を多用した、ギリシアの神々、日本の八百万の神々の、あの godsを 。

 

World-wide に付き合い、 World-deep に成熟し、なお可変性を感じさせる存在であり続けたいと願ったのです。

 

時代が変わり、場所が変わり、異文化、つまり言葉が変わっても、シェイクスピアは変化し、成熟し、成長する多元的存在であり続けなければなりません。

 

生きて行く上で一番の財産になるのは体験です、生まれてから現在に至るまでのあらゆる体験がすべて潜在脳に蓄積されるから。

 

目にしたり耳にしたり嗅いだり触ったり味わったりする五感の記憶が集積する潜在脳、ここに手を届かせて十方衆生を観客として言葉を紡ぎ出したのがシェイクスピアなのです、見誤ってはいけない

 

あらゆる時代と社会に生き続けるシェイクスピアの強い繁殖性、持続性がここに。

 

求められる白鳥のような無垢、節操あるいは節度は、変化し成熟する多様性のなかにこそ輝くものではないでしょうか。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読 

http://shaks.jugem.jp

 

 

| - | 09:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
スポンサーサイト
| - | 09:37 | - | - | pookmark |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://shaks.jugem.jp/trackback/502
トラックバック
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>
SPONSORED LINKS
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE