シェイクスピア朗読

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一千万人を代弁−『ジョン王』3幕1場


1595年頃に上演された『ジョン王』の主人公はマグナカルタにかかわった王様で、ロビンフッドの敵として名高い王様ですが、作品にはこれらのことは一切触れられていません。

 

多視点の典型とも言うべき劇で、英仏間の争いから嫁姑の確執、和議、謀叛、戦争、教皇の介入、戴冠式、王子アーサーの死、ジョンの毒殺、和平に至るまでの事件が描かれ、猛烈な勢いであれかこれかの選択を迫られるため観客は困惑させられる、そんな展開。

 

観客の予断はことごとく裏切られて、浮かび上がってくるのは時代の実相と不毛な状況。

 

天にましますお天道様からすれば、こんな人間界のごたごたなど何ということはない、見苦しい土くれだけの地上が累々と広がっているだけ、せめて光を投げかけてやろうかくらいのことにしかなりません。

 

3幕1場の冒頭でジョン王(フランスのフィリップ王)が言っています。

 


 その通りだよ(お前)このめでたい日を、
 いつまでもフランスの祝日にしよう。
 この日を祝って輝く太陽は
 その進路で足をとめ、錬金術師の役を演じ、
 美しい目の光で
 見苦しい土くれの地上を輝く金に変えてくれるだろう。
 年が巡ってこの日が来たら、
 必ず、祭日に。  

  

                                 3幕1場

 

 

Fran. 'Tis true (faire daughter) and this blessed day,

 Euer in France shall be kept festiuall:

 To solemnize this day the glorious sunne

 Stayes in his course, and playes the Alchymist,

 Turning with splendor of his precious eye

 The meager cloddy earth to glittering gold:

 The yearely course that brings this day about,

 Shall neuer see it, but a holy day.

 

    Stayes in his course = Stands still     Alchymist =

  He who sought to turn base metals such as lead into gold

 

 

見苦しい土くればかりの地上、英仏の和議というめでたい日は破約の日にすぎませんでした。

 

お前がそばにいなかったらアーサー殺しは思いつかなかったとジョンは側近のヒューバートを責め立てましたが、誰に責任があるというのでもない、アーサーの死は不条理そのものだった。

 

あれこれの悲嘆はすべて語り古された物語にしかならず、欺き欺き返される恥の上乗りがこの世をみっともないものにして、喜びとなるものは何一つない。

 

それをひととき輝かしてくれるのが太陽、悪事に走り憎しみにとりつかれた人びとの心をひととき温かく溶かしてくれるのです。

 

劇の場は千客万来のグローブ座であり、雑多な観客に向かってシェイクスピアは英語という土俗語に乗せて時代の実相と不毛な状況を語り掛かけました。

 

土俗語の一つひとつのせりふを観客は自分に向けられた言葉として理解しました。

 

ブリテン島ではいくつかの異なった言語が使われていましたが、シェイクスピアはイングリッシュという一種類の地方の土俗語しか使わなかったのです。

 

にもかかわらず、言葉の違う人たちにも理解してもらうことができた、母語を異にする人びとにも瞬時に理解してもらうことができた。

 

どう説明したらいいのか。

 

一種類の土俗語の音声によってイングランド人からスコットランド人、ウェールズ人、そして大陸のベルギー人、オランダ人、フランス人の観客にも理解してもらえたということは、シェイクスピアの言語が言語の違いを超えて一千万の意味を担ってそれぞれの観客に分かるように届けられた、観客の人数に応じた音声が、一気に、一時に、各界、各層、各地の観客に同じ意味を担ってそれぞれにふさわしいメッセージとなって届けられたということになるのか。

 

観客のみんなが知っているあれこれの過去の物語を下敷きにしているとは言っても、何とも神業的なやり方ではないかと思われますが、事実その通りだったのです。

 

一種類の土俗の言語で表現されたせりふが聴き手の耳に届く際、自分のためだけに発せられたとして受け止められ、自分に合わせてくれていると感じられ、自分にぴったりの意味内容を担ってスッと理解できる、ということは、言い換えれば、舞台の声が太陽の光を受けて発せられたかのごとくに、あらゆる人びとがそれぞれに分かる範囲内で的確に理解されたということになるでしょう。

 

自分一人のために語られるせりふというのは、舞台の声が自分にとって、ああ、そうなんだと納得のいく声ということになり、そういう声になるためには自分のためだけに語られていると感じられる観客側の積極的な受容精神が求められることにもなります。

 

上に輝く太陽が足をとめて見苦しい土くれに光を届けて一瞬明るく照らし出すとは、人びとの祈りや願いが天来の光となって観客の一人ひとりに届けられる、いわば太陽が錬金術師の役を演じているように感じられるということに。

 

シェイクスピアは一千万人を代弁するとよく言われますが、煎じ詰めれば、舞台の言葉を観客がどのように主体的に受け止めるかの問題に帰着するのです。

 

シェイクスピアは人間の愚行を観察してその姿をそのまま丸ごと表現しよう、繰り返される愚行も太陽の光に照らされなければならないと考えたのです。

 

けれども、それは劇作家自身の愚行を解放したいという思いもあったのではないでしょうか。

 

そんなシェイクスピアの思いが役者を通して観客に届けられる、このように受け止められるとき、せりふが太陽の光を受けてストレートに観客に届けられるのです。

 

一千万人の声が太陽の光を浴びて届くとはシェイクスピアの思いが役者の声を通して聴き手に届くということ、このことはシェイクスピア朗読をするときにしっかり肝に銘じておかなければなりません。  

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読             

http://shaks.jugem.jp/

 

 

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