シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
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シェイクスピアの英語

 

日本語が輝きを失ってきました。

 

言霊を失い、声を失い、顔を失い、人との関係性が崩れ、家族、コミュニティー、職場への帰属意識が無くなってきました。

 

通りすがりの人の声にハッとして振り返れば、その方はスマホに向かって話しかけておられるし、会話が対面による声の投げ合いから声の主は機器のなかになってしまった。

 

AI(人工知能)と情報技術による精妙な機械音が声の主役となって、無機質に記号化されて行きます。

 

シェイクスピアが亡くなったのは1616年、日本でこの年に亡くなったのが徳川家康、随分昔のことなのでシェイクスピアの言葉はもう届かない、声として聴こえてこない、と私たちは思ってしまう、はたして。

 

近代に至るまでヨーロッパで広く用いられた共通語は、行政や外交においてはフランス語、学問や宗教においてはラテン語で、英語はヨーロッパの西の果ての島国で話される土俗語に過ぎませんでした。

 

英語のステイタスに対して意識の変化が起こったのはテューダー王朝で、この時期英語は統語法、綴り字、発音、意味、アクセントが大きく推移、変化しました。

 

西ヨーロッパのルネサンス人文主義の影響を受けて英国の知識人は英語を洗練させなければならないと考えたのです。

 

運動を始めました。

 

古典古代の教養を身につけ修辞学(rhetoric)を学べば言語改革できる、人格を陶冶でき、議論できるようになる、そう考えたのはエリザベス1世の家庭教師を務めた人文学者ロジャー・アスカムでした。

 

その著『教師論』(1570)のなかで彼はラテン語の習得とそれに伴う英語の洗練が不可欠と主張して、ラテン語と英語を二重翻訳するというやり方を実践しました。

 

生徒はまずお手本(古代ローマの弁論家キケロによるラテン語の文章)を英語に訳す、一時間ほど時間をおいて自分の英訳をもとにラテン語作文する「、最後に原文と並べて言語構造を比較するというもの。

 

当時はできない生徒はカバの枝を束ねた鞭で引っ叩かれましたので、シェイクスピアは叩かれながら両言語を学んだのでしょう。

 

友人のベン・ジョンソン(1572-1637)は大学に行けなかったシェイクスピアを「ラテン語はちょっぴり、ギリシャ語はそれ以下」とこき下ろしましたが、シェイクスピアのラテン語能力は高く、それに伴う英語力は圧倒的に高度に洗練され、情緒的に豊かで論理的にも正確なものとなったのです。

 

ジョンソン自身も大学には行けませんでしたが、シェイクスピアがなくなった年に英国最初の桂冠詩人(a poet of  laureate)となり、宮廷に要職を得ました。

 

こんな短詩を残しています。

 

 It is not growing like a tree

   In  bulk, doth make Man better be:

   Or standing long an oak, three hundred  year,

   To fall a log at last, dry, bald, and sere:

   A lily of a day

   Is  fairer far in May,

   Although it fall and die that nightー

   It was the plant and flower of Light.

   In small proportions we just beauties see:

   And in short measures life may perfect be.

 

 木が育つのとは違う

 大きく、人間がより人間らしくなって行くのは。

 樫の木が長い年月立ち続けて、三百年、

 丸太となって倒れるのとは、枯れ、禿げ、干からびて。

 一日だけの百合は

 5月に美しく命を生きる、

 たとえ一晩で枯れ萎んでも―

 天上の光を宿す草花だったから。

 ひそやかな佇まいに美がある。

 束の間の命に素晴らしい人生がある。

 

詩集(Underwood, 1640)に収められているもの、聖書を踏まえた表現が散りばめられています。

 

いま日本では子どもたちに英語をどのように教えるかが議論されて、議論の中心が情報技術中心に推移し、映像機器を活用した小学校の英語教育が教科化される方向となりました。

 

英語に堪能な先生がいないので、画一的に漏れなくネイティヴの発音に触れてもらって、聴く・話す能力を高めてもらうおうということらしい。

 

狙いが分からないではないが、こんなやり方で外国語学習にときめきを感じることができるのか、テクノロジーに依存するだけでいいのか、映像による外国語学習で国語の洗練があるのか、言語に対する愛情は育つのか。

 

英語と国語の二重翻訳というやり方について言えば、シェイクスピアの原文を日本語に訳し、しばらくして自分の日本語訳をもとに英作文し、できあがった英文を原典と比較する、こんなやり方で両言語の構造を頭に叩き込むやり方になります、できたら褒めてあげる、引っ叩くのでなく。

 

敢えてこんな古色蒼然としたやり方で英語力と国語力を磨くというやり方が案外子どもたちの好奇心を刺激し、興奮して2言語併用学習をやり出すかもしれません。

 

シェイクスピアの言語は、あるがままそのままにストレートに感情を乗せ、具体的に正確に分かり易く伝えてきます。

 

言葉遣いは論理的であるばかりか、表現は香り高いインパクトある力に満ちていて、特別な芸術言語に偏るようなものではありません。

 

オリンピックを控えて英会話教育が活況を呈してきたのは結構だけれども、煽り立てるやり方ではいけない、携帯用翻訳機器の性能が高まり、万能ロボット登場の状況になってきたいま、苦労して英会話を勉強する者はごく一部の人間に限られてしまう。

 

言語を学ぶということは、国語であれ、外国語であれ、自分を知り、他者を知り、多様な関係性に目を開き、大きな一つの存在に成長して行くことです。

 

異言語学習は、上辺だけのペラペラで内容が伴わなければ、人格破壊、国籍不明者になりかねない、そんな例を私はいくつも見てきたが、シェイクスピアの英語は小学生から学ばせたほうがいい、はじめからドーンと本物を与えたほうがいい。

 

英国では小学校低学年生からシェイクスピアを学ばせ、高学年になると『ロミオとジュリエット』などの原文朗読を課します。

 

You は Thee や Thou、Your は Thy 、that は doth が使われていたという説明を聴けば、子どもたちはかえって英語に興味と親しみを感じるようになるのではないか。

 

すべての単語を理解する必要はない、劇中で何が起こっているか大筋分かればいい、最後まで読み切ってストーリーを理解することが重要だと教えてあげることによって。

 

英国では現代英語に訳した英文などは与えません、シェイクスピアの英語が現代英語ですから。

 

中学生になると、専門的な発声練習やパフォーマンスの演劇体験学習が待っていて、物怖じせずに堂々と発言し行動できる人間になるように求められます。

 

英国人はこうしてみんなシェイクスピアの原文を直接読み始めて新しい世界を知り、そのなかで自己形成と幅広い生き方のできる英国有為の人材に育って行くのです。

 

人づくりの大役を担っているのはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーですが、ロイヤルファミリーも常に表に出て檄を飛ばし続けています。

 

シェイクスピアを読めば、想像力豊かに感情表現ができるようになる、人とこの世に対する好奇心が芽生え諸々の関係性を学ぼうという気持ちになる、推理・思考に磨きがかかる、ものごとの高次の性質を知りたいと思うようになる、自分と違う立場や環境にある者と共感、共鳴し合うになる、母語であるひらがな、カタカナ、漢字を使ってまとまった文章を書いてみようと思い立つ、そういうことになるのではないか。

 

英国の国語教育を思うにつけ、わが国の国語教育、外に向けての日本語教育の現状が思いやられてなりません。

 

調べてびっくり、学習支援していて中学校の英語教科書を片っ端から調べて分かりました、シェイクスピアが登場しない、微塵も触れられていない。

 

ヒアリング、リスニング、リーディング、ライティングという劣悪な分断思考できれいに整理された英語教科書、そこには世界を視野に入れた英語の成り立ちも世界のなかでの日本語の成り立ちも記されてはいない。

 

初めに母音あり、子音あり、シェイクスピアの英語に辿り着くまでの英語史の概要くらいは踏まえなければいけない。」

 

知的興奮を起こさせまいとするかのような教科書では英語嫌いを増やすくらいのことしかできない。

 

英語に大きな変化が起こったのはシェイクスピアの少し前であるから、チョーサーのミドルイングリッシュとはまったく違う、遠い英語ではない、シェイクスピアの英語はモダーンイングリッシュ、つまり現代文、いまの文法、いまの語彙なのです、綴り字はちょっと違うかもしれないが。

 

小学校の4年生はもう立派な大人でしょう、水で薄めたような教材ではどうなるものでもありません。

 

英語を学んで人とこの世のありようについて考える時間にはならない、友情とは、人が好きになるとは、思い遣るとは、生きるとは、別れるとはを含めて、深く考えてみる時間にはならない。

 

『ロミオとジュリエット』などは男女間の礼儀作法、恋愛、結婚の問題を扱うモラル教育の格好の教材になるはず。

 

大人になろうとする時期の子どもたちに読み応えのあるものを与えることをしなければ、情緒豊かに生きる術を身につけることも、論理的思考を磨くこともできないでしょう。

 

ヨーロッパを歩き回って、自分も含めて、日本人は未熟児状態にある、大人として生きていない、自主自立の精神で心豊かに生きていない、他者とかかわって生きていない、大人になり損なって世界のなかで孤立している、そんな寒々とした印象を持ってしまいました。

 

この思いを払拭するためにも、私は小・中学生にシェイクスピアをコアとした英語教育を課してほしいと訴えたい。

 

AI時代、情報化時代、グローバル時代を生き伸びるためにも、シェイクスピアを通して格調高い英語を学び、国語にも磨きをかける、自分の目と耳で見聞し、自分の頭で考え、問題の所在を見極めることのできる自主自立した大人にならなければいけないのです。

 

劇中のこの世の原型とも言える多様な人物群に接して広い視野と深い洞察力を身につけることができれば、ポツポツでいい、世界に向かって英語混じり日本語で話す、その場合論理的で正確ですっと頭に入るって行くやさしい言葉遣いでしっかりと発信する、国語でなく世界に溶け込むような日本語を使う、触りの部分は英語にして、聴く者に自分の顔をしっかり向けて。

 

何を恥じることがあろうか、人間関係から国際関係までの役割を担い得るグローバルマインドの世界市民になるためには、シェイクスピアの英語を通して国語力をつけ、外に向かっては英語混じり日本語を発信するのです、黙ってニコニコして誤魔化すのでなく、イエスとノーを明確にして、堂々と世界と渡り合えるようにならなければいけません。

 

 

シェイクスピア朗読教室

http://shaks.jugem.jp/

 

 

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