シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
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シェイクスピアの英語

 

言葉が弱過ぎる、弱すぎてあらゆる関係性が崩れてきた。

 

家族、コミュニティー、職場への帰属意識が薄くなった、一方、AI(人工知能)と情報技術が人間らしくもあった仕事を次々に奪ってきています、絶句。
 

言葉が忘れられるということは、人が生きる力を失ってきていることに他ならない、自分のことを考えるのに精一杯で、自分と異なる立場の人の身になって考えることがきないということ。

 

自分と相容れない状況に対処できない、自分の置かれている状況に当てはめて想像することができない。そんな人が増えてきている。

 

こうして人が老い縮小するばかりの平成が終わって新しい年を迎えても、人は枯れ萎んで行くばかり。

 

政治は、内政も外交も、すべて言葉の問題として表れてくる、魂の抜け殻だけが宙に舞い、漂い、日常生活のなかで交わされる会話は、声の投げ合いでなく、黙々と喋る相手はスマホのなかにいる。

 

萎んで行く国語をどう見る、どうする、二葉亭四迷が生きていたら何と言うか。

 

シェイクスピアが亡くなったのは1616年、日本でこの年に亡くなったのが徳川家康、随分とまあ昔の人のような。

 

で、シェイクスピアの英語は古いのだろうか、もはや声として聴こえてはこないのか、現代英語に脱皮したあとの皮殻に過ぎないものなのか。

 

近代に至るまでヨーロッパで広く用いられた共通語は、行政や外交においてはフランス語、学問や宗教においてはラテン語で、英語はヨーロッパの西の果ての島国で話される地域語に過ぎませんでした。

 

英語のステイタスに対して意識の変化が起こったのはシェイクスピアが登場したテューダー王朝で、この時期英語は統語法、綴り字、発音、意味、アクセントが大きく推移、変化しました。

 

西ヨーロッパから伝わったルネサンス人文主義の影響を受けて、英国の知識人は土俗語としての英語を洗練させるために言語改革運動を唱え始めます、古典古代の教養を身につけて人間をつくり、修辞学(rhetoric)を重視して言葉をきちんと操れるような人間を、英語を洗練すれば人格を陶冶でき、議論することができるようになるじゃないかと。

 

テューダー朝を代表する女王エリザベス1世(在位1558-1603)の家庭教師を務めていた人文学者ロジャー・アスカム(1515-68)は、その著『教師論』(1570)のなかでラテン語の習得とそれに伴う母語の洗練が不可欠と主張しました。

 

アスカムが勧めたのはラテン語と英語を二重翻訳するというやり方で、生徒はまずお手本(古代ローマの弁論家キケロによるラテン語の文章)を英語に訳す、一時間ほど時間をおいて自分の英訳をもとにラテン語作文して、原文と並べて言語構造を比較するというものでした。

 

当時は褒めて伸ばす教育ではなく、できない生徒はカバの枝を束ねた鞭で引っ叩くというものでしたから、シェイクスピアは叩かれながら両言語の構造を頭に叩き込まされたのです。

 

大学には行かず、後輩にあたるライバル友人ベン・ジョンソン(1572-1637)に「ラテン語はちょっぴり、ギリシャ語はそれ以下」とこき下ろされはしたが、実際にはシェイクスピアのラテン語能力は高く、それに伴い英語力は圧倒的に高度に洗練され、膨らみ、繁殖力あるものとなったのでした。

 

いま日本では子どもたちに外国語としての英語をどのように教えるかが議論されて、と言っても議論の中心は情報技術中心に推移し、映像を活用した小学校英語教育が教科化される方向となっています。

 

英語に堪能な先生がいないので大変だ、だから画一的に漏れなくネイティヴの発音に触れてもらって、聴く・話す能力を高めてもらおう、狙いが分からないではないが、テクノロジーだけに依存していいのか、機器を操作するだけの英語教育でいいのか、英語学習に伴う国語の洗練はないのか、との疑問が湧きます。

 

英語と国語の二重翻訳というやり方について言えば、シェイクスピアの原文(ファースト・フォリオ)を日本語に訳し、しばらくして自分の日本語訳をもとに英作文し、できあがった英文を原典と比較する、こんなやり方で両言語の構造を頭に叩き込む、少しでもできたら褒めてあげる、引っ叩くのでなく、敢えてこんな古色蒼然たるやり方で英語力をつけ国語力を磨くというやり方はどうか。

 

オリンピックを控えて英会話教育が活況を呈しているのはいい、しかしこのように煽り立てる状況を冷ややかに苦々しく思っている者もいるだろう。

 

携帯用翻訳機器の性能はさらに高まり、万能ロボット登場も近い、こうなると苦労して英会話の力をつけようという人は一部の人間だけに限られてくる。

 

言葉を学ぶということは、母語であれ、外国語であれ、人間を鍛え、人を知り、世界を知り、多様な関係性に目を開き、光り輝くことであろう。

 

異言語学習にはそれなりのデメリットも伴う、御承知の通り、危険が潜む、中途半端、上っ面だけで内容が伴わなければ、人格の破壊、国籍不明者になってしまう、そんな例を私はたくさん見てきた。

 

シェイクスピアを通して母語を振り返るという活動には多くの可能性があるのは間違いない。

 

この信念に基づいて言うならば、シェイクスピアの英語は小学生から学ぶべきものである。

 

英国では小学校低学年生からシェイクスピアの原文朗読があり、高学年になると、義務教育の正式な授業科目の一つとして『ロミオとジュリエット』などの原文朗読が課されます。

 

You は Thee や Thou と書かれ Your は Thy と書かれているが、気にしない、すべての単語を理解する必要もない、劇中で何が起こっているか大筋が分かったらそれでいい、読んで、読んで、最後まで読み切ることが重要なのです。

 

現代英語訳というものはない、シェイクスピアの英語が現代英語ですから。

 

中学生になると発声練習やパフォーマンスの実践体験学習が待っていて、物怖じせずに堂々と発言し行動できるようにしつけられます。

 


シェイクスピアは原文で読むことに価値があると思われているのは、韻とか原文の言葉の響き具合が消えてしまうのを怖れるから。

 

中学生にシェイクスピアの演劇的教育が課されるのは、シェイクスピアの英語と舞台劇が英国人としての人格形成と幅広い生き方に大きな影響力を持つ、シェイクスピアは立派な大人をつくる、レディーとジェントルマンをつくると考えられているからです。

 

英国人はみなシェイクスピアの原文を国語として直接読む、英国有為の人材になるにはシェイクスピアを学ばなければならない、この人づくり、国づくり事業を担うのがロイヤル・シェイクスピア・カンパニーですが、ロイヤルファミリーも常に表に出て檄を飛ばしています。

 

人格形成と人生の幅を広げることにウェイトを置く英国の国語教育を思うにつけ、わが国の国語教育、外に向けての日本語教育の工夫のなさが思いやられます。

 

シェイクスピアを読んで想像力豊かに感情表現できるならば、人とこの世に対する関心と好奇心が芽生え、諸々の関係性を学び直そうという気持ちになるでしょう。

 

推理・思考に磨きがかかり、ものごとの高次の性質を知りたい探りたいと思うようにもなるでしょう。

 

言葉を交わして自分とは違う立場や環境にあるある人と共鳴し合おう、あるいは、まとまった文章をひらがな、カタカナ、漢字を使って書いてみようという気持ちになるかもしません。

 

そんな気持ちになれば世界に通用する立派な大人になれる、間違いなく、と思って、調べてみて、驚いた。

 

学習支援していて中学校の英語教科書を片っ端から調べて分かったのだが、シェイクスピアが登場しない、微塵も触れられていない。

 

ルーン文字(rune)から教えろと野暮なことは言わないが、シェイクスピアの英語に辿り着くまでの英語史の概要くらいは踏まえさせなければいけない。

 

ヒアリングはこう、リスニングはこう、リーディングはこう、ライティングはこうと、こんなところにも分断思考が及んでいて、いだけない。

 

知的興奮を起こさせない教科書では英語嫌いを増やすくらいのことしかできないんじゃないか。

 

英語に大きな変化が起こったのはシェイクスピアの少し前、チョーサーのミドルイングリッシュとは違う、つまり古文でなく現代文、いまの文法、いまの語彙です、綴り字はちょっと違ってはいるけれども。

 

小学校の4年生はもう大人、水で薄めたような内容の教材ではどうにもならない、世界に通用するような人物になれません。

 

シェイクスピアを読んで人とこの世を知り、対者との関係を学び、人が好きになること、生きること、死ぬことまでを含めて、人生について深く考えてもらわなければならない時期、シェイクスピアを盛り込んだ読み応えのある英語教科書を早急につくるべきです。

 

『ロミオとジュリエット』などは、男女間の礼儀作法、恋愛、結婚の問題を扱うモラル教育の格好の教材になります。

 

ヨーロッパを歩き回って、自分も含めて、日本人は未熟児状態にある、大人として生きていない、ゆとりを持って心豊かに生きていない、他者とかかわって生きようとしない、大人になり損なって世界のなかで孤立している、そんな寒々とした印象を持った。

 

この悔しい思いを払拭するには、小・中学生にしっかりとした外国語教育を、シェイクスピア読解能力をつけ、この世の原型とも言える多様な人物に接して、広い視野と深い洞察力を、そう訴えざるを得ない。

 

AI時代、情報化時代、グローバル時代を人間らしく生き伸びるためにも、子どもたちは格調高い英語を学んで国語に磨きをかける、自分の目と耳で見聞し、自分の頭で考え問題の所在を見極め、見捉えることのできる人間に。

 

そう、ぽつぽつでいい、世界に向かって英語混じり日本語で発信するくらいにならなきゃ、その場合国語でなく世界に溶け込むような日本語を使う、触りの部分を英語にして、何を恥じることがあろうか。

 

人間関係から国際関係までの役割を担い得る幅も厚みも深みもあるグローバルマインドの世界市民になるためには、シェイクスピアの英語を通して国語力をつけ、外に向かっては英語混じり日本語を発信する、黙ってニコニコして誤魔化すのでなく、イエスとノーを明確にして、堂々と。

 

 

シェイクスピア朗読教室

http://shaks.jugem.jp/

 

 

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