シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
バルコニー・シーンー『ロミオとジュリエット』2幕2場

 

安全保障と社会保障の危機を利用しての国難突破解散?

 

国難状態にしたのは「ふり」政治ではなかったのか。

 

どんな社会にあっても装わずに声を発する者はいます。

 

恋する者の掛け値なし、嘘偽りのない思慕の情から。

 

時・状況を越える歓喜の瞬間が訪れるが、恋は闇、恋は盲目、それだけに永遠に輝くのでしょう。

 

カオス化した社会のヴェローナ、バルコニーの冒頭シーン、青白い月の光に照らされて浮かび上がるキャプレット家の夜の庭、さきほどまでマキューシオの騒々しいからかいの声が垣根越しに。

 

暗い木陰に身を潜めてロミオが窓から漏れてくる光を見上げています。

 

 

ロミオ 他人の傷をあざ笑っていろ痛みを知らないやつは、

 待て、何だあの窓からこぼれる光は?

 向こうは東、ジュリエットは太陽だ、

 昇れ太陽妬み深い月を消してくれ、

 嘆いてすっかり病み蒼ざめているな、

 月に仕える乙女の君が主人よりはるかに美しいから。

 仕えるのはやめたほうがいい女神は嫉妬深い、

 女神の侍女の揃いのお仕着せは青っ白い緑色、

 道化以外は着やしない、脱ぎ捨ててくれ。

 俺の貴婦人、ああ俺の恋人、ああ分かってくれ、

 口をきいたぞ、いや何も言っていない、どうでもいいか?

 目がものを言っているから、答えてやろう。

 厚かまし過ぎるな相手は俺じゃないんだから。

 大空で一番美しい二つの星が、

 何かの用でよそへ行きあの人の目に頼んでいるのか、

 代わりに光っていて戻ってくるまでと。

 あの目が夜空にあって、星があの顔に宿れば、

 頬の輝きが星たちを恥じ入らせるだろう、

 日の光に輝くランプのように、あの人の目は星座になり、

 空いっぱいに光を溢れさせ、

 鳥たちが囀り出すだろう、もう夜ではないと思って。

 首をかしげて頬を片手に預けているな。

 あああの手を包む手袋だったら、

 あの頬に触れられる。

ジュリエット ああ。

ロミオ 何か言ったぞ。

 ああもう一度言ってくれ輝く天使よ、君の姿は

 頭上はるか闇夜にもまばゆい、

 翼ある天使そのもの

 驚いて思わず後ずさりして

 目を見張って振り仰ぐ人間たちを尻目に、

 ゆったり流れる雲に乗り、

 大空を渡って行く天使。

ジュリエット ああロミオロミオ、どうしてロミオなの?

 お父さまをお父さまと思わずに名前を捨ててちょうだい。

 それが無理なら、私の恋人だと誓って、

 そうすれば私はもうキャピュレットではない。

ロミオ もっと聞いていようか、いまの言葉に応えようか?

ジュリエット 敵はあなたの名前だけ。

 あなたはあなた、モンタギューではなくて、

 モンタギューって?手でもなければ足でもない、

 腕でも、顔でもない、ああほかの名前に

 男の方の。

 名前って何?薔薇と呼んでいる花を、

 ほかの名前で呼んでも甘い香りに変わりはない、

 ロミオだって同じ、ロミオって呼ばれなくても、

 非の打ちどころのないお姿に変わりはない、

 ロミオって名前がいけないの、名前を捨てて、

 そしてあなたの体でない名前に代わって、

 私のすべてを受け取って。

ロミオ 言葉どおりに受け取りましょう。

 恋人とだけ呼んでほしい、それが僕の新たな洗礼、

 いまからはもうロミオでなくなります。

 

                 2幕2場 

 

 

Rom. He ieasts at Scarres that neuer felt a wound,

 But soft, what light through yonder window breaks?

 It is the East, and Iuliet is the Sunne,

 Arise faire Sun and kill the enuious Moone,

 Who is already sicke and pale with griefe,

 That thou her Maid art far more faire then she:

 Be not her Maid since she is enuious,

 Her Vestal liuery is but sicke and greene,

 And none but fooles do weare it, cast it off:

 It is my Lady, O it is my Loue, O that she knew she were,

 She speakes, yet she sayes nothing, what of that?

 Her eye discourses, I will answere it:

 I am too bold 'tis not to me she speakes:

 Two of the fairest starres in all the Heauen,

 Hauing some businesse do entreat her eyes,

 To twinckle in their Spheres till they returne.

 What if her eyes were there, they in her head,

 The brightnesse of her cheeke would shame those starres,

 As day-light doth a Lampe, her eye in heauen,

 Would through the ayrie Region streame so bright,

 That Birds would sing, and thinke it were not night:

 See how she leanes her cheeke vpon her hand. 

 O that I were a Gloue vpon that hand,

 That I might touch that cheeke.

Iul. Ay me.

Rom. She speakes.

 Oh speake againe bright Angell, for thou art

 As glorious to this night being ore my head,

 As is a winged messenger of heauen

 Vnto the white vpturned wondring eyes

 Of mortalls that fall backe to gaze on him,

 When he bestrides the lazie puffing Cloudes,

 And sailes vpon the bosome of the ayre.

Iul. O Romeo, Romeo, wherefore art thou Romeo? 

 Denie thy Father and refuse thy name:

 Or if thou wilt not, be but sworne my Loue,

 And Ile no longer be a Capulet.

Rom. Shall I heare more, or shall I speake at this?

Iu. 'Tis but thy name that is my Enemy:

 Thou art thy selfe, though not a Mountague,

 What's Mountague? it is nor hand nor foote,

 Nor arme, nor face, O be some other name

 Belonging to a man.

 What? in a names that which we call a Rose, 

 By any other word would smell as sweete,

 So Romeo would, were he not Romeo cal'd,

 Retaine that deare perfection which he owes,

 Without that title Romeo, doffe thy name,

 And for thy name which is no part of thee,

 Take all my selfe.

Rom. I take thee at thy word:

 Call me but Loue, and Ile be new baptiz'd,

 Hence foorth I neuer will be Romeo.

Iul. O Romeo, Romeo, wherefore art thou Romeo?

 Denie thy Father and refuse thy name:

 Or if thou wilt not, be but sworne my Loue,

 And Ile no longer be a Capulet.

 'Tis but thy name that is my Enemy:

 Thou art thy selfe, though not a Mountague,

 What's Mountague? it is nor hand nor foote,

 Nor arme, nor face, O be some other name

 Belonging to a man.

 What? in a names that which we call a Rose,

 By any other word would smell as sweete,

 So Romeo would, were he not Romeo cal'd,

 Retaine that deare perfection which he owes,

 Without that title Romeo, doffe thy name,

 And for thy name which is no part of thee,

 Take all my selfe. 

Rom. I take thee at thy word:

 Call me but Loue, and Ile be new baptiz'd,
 Hence foorth I neuer will be Romeo.
Iuli. What man art thou, that thus bescreen'd in night
 So stumblest on my counsell?
Rom. By a name,
 I know not how to tell thee who I am:
 My name deare Saint, is hatefull to my selfe,
 Because it is an Enemy to thee,
 Had I it written, I would teare the word.
  Vestal = Virginal    though = even if    owes = owns    doffe  = shed

 

 

いいですね、政治哲学、政策理念を問う前に朗読してみよう、ロミオになり、ジュリエットにもなって。

 

人を愛することがどういうことかに思い至れば、あるべき社会の姿が見えてくるかもしれません。

 

貧窮が人を追い詰めない、争いを招き寄せない、死の影がまとわりつかない、人を信頼し愛することができる、そんな社会の実現に向けて私たちはどれだけエネルギーを注入できるでしょうか。

 

解散を言葉重視の政権運営に引き戻すチャンスと捉えましょう。 

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読

shaks1564@gmail.com

 

 

| - | 06:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
シェイクスピア役者

   

 

ジャージャージャー、いつまでも暑苦しいんだよね、ミーンミンミンミーン、翅をこすり合わせてよくこんな音を、ツクツクホーシツクツクホーシ、あ、うん、わかるよ、ウンヨースウンヨース?わかんねえ、カーナカナカナカナ、悲しくなるね、夏ももう終わりか。

 

ヒグラシの鳴き声とともに聴こえてきた28日臨時国会冒頭の衆院解散、仕事人内閣が何も仕事しないのに、森友・加計問題の説明もないのに、国会審議拒否、まさかとは思ったが、こんなわけの分からない解散ができるのは世界でこの国だけじゃないの、英国では絶対しないし、政治の私物化、解散権の乱用、弾道ミサイルをぶっ放したつもりの暴発解散じゃないのカナ、カーナカナカナカナ。

 

夏の盛りも過ぎたところで、ヴィクトリア王朝時代、シェイクスピアを上演する劇場も、上演背景も、ますます手の込んだわけの分からないものに。

 

上演用の台本も、役者の演技を目立たせるために独白をカット、アクション重視。

 

『アントニーとクレオパトラ』の海戦場面などはスピーディーに処理されなければならないのに、荘重なリアルすぎる舞台装置とアクションのスタイルづくりのためにペースは乱れたらしい。

 

頻繁にシーンが変わるため、凝った背景を転換すれば、そのたびにペースが乱れ、上演は度々中断する事態に。

 

そうなると観客が上演に耐えられる長さに上演時間を調整しなければならなりません。

 

せりふはさらにカットされ、シェイクスピア劇はカットなしでは上演できないという原則が広く受け入れられるように。

 

そんななか、サラ・シドンズ(Sarah Siddons,1755-1831)とその弟ジョン・ケンブル(John Philip Kemble,1757—1823)の役者活躍がありました。

 

ケンブルはコリオレーナスが最大の当たり役で、姉と一緒に『マクベス』を朗詠調で演じてシェイクスピア役者と言われるようになりました。


シャイロックを喜怒哀楽に満ちた人間味溢れる人物として演じた最初の役者がエドマンド・キーン(Edmund Kean,1787-1833)です。

 

喜劇の一部をクローズアップすれば悲劇になることにキーンも観客も気がついたのです。

 

以後『ヴェニスの商人』はもっぱらシャイロックの芝居として演じられるようになり、この作品が友愛と恋愛を描く弦楽四重奏の喜劇として上演された例を私は知りません。

 

続いてヘンリー・アーヴィング(Sir Henry Irving, 1838-1905)という当たり役のシャイロック役者が登場。

 

共演者エレン・テリー(Ellen Terry,1847-1928)とともに、額縁舞台、凝った舞台背景、華麗な装置、カットされた台本によって演じられる最盛期(1847—1928)のシェイクスピア役者として君臨します。

 

エレン・テリーはアーヴィングの相手役を務め、ポーシャやマクベス夫人を演じました。

 

二人は観客の目に訴えた、ということはつまり、せりふを聴いて想像するのでなく、視覚重視の上演にシフトしたということです。

 

批判する人はいましたが、観客の嗜好に合わせて圧倒的な人気を誇り、アーヴィングは役者として初のサー(knight)の称号を、エレンにはデイム(Dame、knight に叙せられた女性の敬称)の称号が与えられました。

 

エレンの息子がロシアのスタニスラフスキー(Konstantin Alekseevich Stanislavsky,1863-1938) と『ハムレット』を共同演出した舞台理論家ゴードン・クレイグ(Edward Gordon Craig, 1872-1966)です。

 

シェイクスピアの原典、張り出し舞台、背景のない流動的な場面転換に回帰するという動きも起こりはしましたが、上演の主流は歴史に忠実な衣装やセットを用いて絵画的効果を追求して観客の目を楽しませる、つまり見せる芝居というものでした。

 

時間や異なる文化の制約を超越する普遍的な天才としてのシェイクスピア崇拝を生み出したのが彼ら役者とロマン主義文学者たち。

 

シェイクスピア劇の欠点とされた場所・時間・筋立ての不一致が逆に劇作家の天才ぶりを証明するものと考えられたのです。

 

それはいいのだが、こんなベタ褒めロマン批評のおかげで、シェイクスピアは舞台上で演じられる劇としてでなく、書斎で読まれ啓蒙されるものとして、読者の叡智を総動員して解釈されるべき詩作品として、崇め敬われる存在となってしまった。

 

読む戯曲としてのシェイクスピアが強調されたことにより、舞台上ではさまざまな矛盾を示すかに見える登場人物があたかも自立したひとつの人格のように取り扱う性格批評が起こり、20 世紀の批評や舞台に影響を与えることになりました。

 

忘れてならないのは、英国によるインドやカリブ海諸国、アフリカの帝国主義支配が確立したとき、植民地における言語教育を根幹で支えたのがシェイクスピア劇であり、シェイクスピア役者であったことです。

 

彼らの演技による英語教育のなかから素養に優れた現地人官僚が育ち、ポストコロニアルの時代が訪れたとき彼らは英国本国の言語文化芸術の中核を担うことになりました。

 

ロンドンやストラットフォードで観劇して目を見張ったのは、植民地で育った彼らシェイクスピア役者の活躍でした。

 

強烈な印象として残っているのが、スワン劇場で観た『タイタス・アンドロ二カス』のアーロン役の漆黒の肌とせりふと動き。

 

考えてもみてほしい、土着の言語と文化の伝統を踏みにじられ、宗主国英国の言葉、すなわちシェイクスピアイングリッシュで自らを語るしかなかった人びとの苦悩を、押し付けられた言葉を自己表現の武器に転じた彼らの苦闘と栄光の歴史を。

 

彼ら彼女らはシェイクスピアを植民地主義を延命させるものとして糾弾しながらも、シェイクスピアの世界を新たな命の源泉として自らを変革させる境界侵犯を試みたのです。

 

政治も言葉です。

 

あるべき政治システムに思いを巡らせば、議論しない参議院は無用の長物、憲法9条のような国民を惑わす条文も不要、と私は思います。

 

議員さんには言葉を尽くして心からの議論をしてもらわなければなりません。

 

内閣府が行政の人事権を握り、権力が国民を監視して、自由かつ多様であるべき政治活動が、いや私たちの心の自由が狭く窮屈になってきました。政治家の言葉に善悪の見定めはつけ難く、正邪の判断もつけ難い。

 

きれいが汚い、汚いがきれいなのが現実であれば、美的判断もつけ難く、通り一遍の決着はつけられそうにありません。

 

この世はメビウスの帯のごとくにひとつにつながっていて、表裏あり、矛盾があります。

 

そんななか、提起された政界再編の動きの本質解明、あるべき社会システムについての最終判断が私たちの1票に委ねられようとしています。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読教室                

http://shaks.jugem.jp

 

 

 

| - | 07:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
新学期の憂鬱

 

 

休息の夏休みが終わり新学期を迎え、子どもたちの自殺が相次いでいます。

 

夏休み明けの中高生の多くが、宿題ができていない、授業について行けない、またいろいろ言われる、何か言うとこっちが悪いと言われる、いじめに遭うかもしれない、1人ぼっちに、疎外感、進路が決まらない、先生は理解してくれない、学校に行くのがつらい、苦しい、しんどいという理由から。

 

偏差値競争とランクづけ、効率重視の経済第一主義から生まれる単一価値の押し付けが目に余る。

 

生じる格差と不安が子どもたちを直撃して学校生活不適応と学業不適応を生み、登校拒否を惹き起こしているのです。

 

そんななか私は夜の市役所のホールで週2回、市学習教室で中高生の学習を支援しています。

 

いろんな子どもたちがやってきます。

 

ひとり親の外国人、ハーフ、不登校で教科書が手元になく教科書を読んだことがない、あるいはオキベンしている、先生や友だちと言葉を交わせない、勉強する意味が分からない、となると、ゼロベースから始めるしかありません。

 

ところが、聴く、離す、読む、書くの基本学習ができていないため、どんなに耳、口、目、手を使うことを強調しても理解してもらえない。

 

余計な水をしたたるほどに吸っているスポンジをギュッと絞る、あるいは逆にカラカラのスポンジに水分補給することが課題。

 

教科書を持って来ない子にはお手上げ、だけれども、この学習教室にはやって来る、だからなんとかしてあげなければなりません。

 

英語教科書の巻末資料(いろいろな職業)のイラストを見せて、What do you want to be ?と問いかけてみると、反応がかえってくることもあって、そこらあたりを話の糸口にしたり。

 

なかには成績トップの子もいて、言われる通りにきちんと予習復習をして、毎日時間をつくって教科書2ページ分を繰り返し音読し英文を書いています。

 

学習教室はあくまで学習するところですから、一人ひとりが自ら進んで学び取ろうとしないかぎり成立しないのです。

 

ご存知でしたか?ひとり親家庭の貧困率はOECD(経済協力開発機構)諸国なかで日本は最悪最低、劣悪な生活環境に置かれて多くの子どもたちが将来を否定された気分になっているらしい。

 

この現実を踏まえて繰り返し言わせていただきたい。

 

若者が安心安全に生活し安定した教育機会が与えられることが日本の将来を決する、高い教育を受けることが自分の健康に留意させることになる、犯罪をなくすことにもなるのだと。

 

中高生はのびのびと自由奔放に生きていい、何の制約も制限も加えられないで夢を追い続けていい、地を駆ける自由、空を飛ぶ自由、水に潜る自由、誰かが好きになる自由、何かが好きになる自由、歌う自由、踊る自由、奏でる自由、知る自由、体験する自由、挑戦する自由、自由のぜんぶが保障されていい、ただし学習教室でスマホをいじるのだけはやめてくれ。

 

日本の戦略目的が見えません。

 

極端な超高齢化社会と他殺と自殺常態化社会を迎えて、税金の30%強が高齢者対象の年金、医療、介護の社会保障費に使われ、国防への安全保障費が増額され、その分若者の教育費や学術振興費に使われる割合が狭められている、この現実をこのまま放置していていいはずがありません。

 

高齢者は、身体運動を行ない、医者や薬に頼らない健康づくりを、できる範囲内でのボランティア活動を。

 

歴史に学べず間違いを繰り返しているようにしか見えない社会になってもなお、私たちは価値観の修正と発想の転換を求めない。

 

教育を第1には考えない。

 

環境がどう変わろうとも若者は自由に考え行動することを制限されてはいけない、どのような環境に置かれても勉学の機会均等だけは保障されなければならない、それが教育権というもの。

 

教育は周囲が与えるものではなく自ら気がつくこと、好奇心に駆られて思いを巡らし行動を起こす、当然行き詰まり、前につんのめる、夢は潰える、が、それはそれでいい、痛さを教訓にすればいい、痛い失敗が当人を大人にするのです。

 

子どもたちにはたくさん失敗してもらって、恐れを知らない臆することのない気力をつけてもらわなければなりません。

 

ですから、失敗した子どもが排除されないような社会、おちこぼれのない社会、何か好きなことをコツコツ積み重ねて行けば大きなところに辿り着けるような社会、日々努力を積み重ねれば必ず報われる、そんな信頼できる社会を築くことが大人の責任、政治の責任というものでしょう。

 

イングリッシュという異言語学習を通して母語を振り返る、そんな言語活動から自己分析と自己認識を深めてもらいたいと、そう思うのはシェイクスピア朗読と同じ。

 

ときどき国語の教科書を朗読してもらうのは言葉の学習が最強の健康法になるからです。

 

まとまった文章を読んで考える力がつけば、興味を持って何かに挑戦しようという気持ちになるでしょうし、自分もまとまった文章を書こうと思うでしょう。

 

ひらがな、かたかな、漢字を使って文章を書けば推理・思考に磨きがかかり、ものごとの高次の性質を知りたいと思うようにもなるでしょう。

 

それにしても気がついて驚いた、中学校の英語教科書にシェイクスピアがまったく登場しない。

 

どういうことなのか。

 

英語に変化が起こったのはシェイクスピアの少し前、シェイクスピアの英語はモダーンイングリッシュ、つまり古文でなく現代文、いまの文法、いまの語彙なのです。

 

英国では小学生上級生ががシェイクスピアの原文朗読をしています。

 

中学生はある部分もう大人、『ロミオとジュリエット』を読んで人とこの世を知り、対人関係を学び、恋愛のお作法を身につけ、生きること死ぬことまでを含めて人生について深く考えてもらう必要があります。

 

欧米並みに。

 

世界の古典ともいうべきシェイクスピアをふんだんに盛り込んだ読み応えのある英語教科書が必要。

 

シェイクスピアから英語を学び、自己管理の仕方を学び、真剣に生きることの意味を探ってもらいたい、ゆめゆめ自殺など考えてほしくない。

 

日本語もイングリッシュも勉強して言語能力を磨き、考える力をつけて、自分にふさわしい仕事を、世間の価値観に囚われない、義務感に囚われない、自分なりの夢や希望を追い続けられる職業を、そんな夢を実現するために高校に行こう、大学にも行こう、そう思えるようにサポートしてあげたい、自分を少し変えるといろんな楽しいことが始まりそうだ、やるぞと思えるように。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読

http://shaks.jugem.jp/

 

 

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