シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
よきものふるきほどよし―『ぺリクリーズ』 1幕1場

 

 

積もった雪が溶け出す季節に起こった不可解なモリトモ問題、日本の首相の妻が公教育を否定して国家主義的復古思想を捏ね上げてみせたのです。

 

保守政治家はこの凍った氷を誰一人として溶かそうとしない、批判しない。

 

『カンタベリー物語』(The Canterbery Tales、韻文と散文から成る24編の物語集、1387〜1400年に執筆、未完)の著者チョーサーの友人ガワー(John Gower、1330?〜1403)は、一方に傾く社会を非難する寓意的で教訓的な詩を書いたことで知られています。

 

そんなガワーがこの世に甦って凍った雪を溶かそうというのが『ペリクリーズ』、冒頭に登場してこんなご挨拶を。

 

 

 古い昔の歌など一節聴きかせようと

 灰のなかから、ガウアー立ち戻りました、

 皆様方が気落ちしておられるなら、

 耳を喜ばせ、目を楽しませましょう。

 祭りの折に朗誦されてきたものなど、

 断食日の宵祭りや村祭りに。

 殿方やご婦人方の、

 徒然を慰めてきた妙薬を。

 この物語は人の誉を称えます、

  よきものはふるきほどよし

 もし、当世生まれの皆様方が、

 お気に召すなら、私の歌を聴いて。

   老いぼれのうたう歌を聴いて、

 心晴々と楽しまれるなら。

 私は生まれ変わり、生き返って

 ご用を務めます、灯ともなって。

 

                              1幕1場

 

 To sing a Song that old was sung,

 From ashes, auntient Gower is come,

 Assuming mans infirmities,

 To glad your eare, and please your eyes:

 It hath been sung at Feastiuals,

 On Ember eues, and Holydayes:

 And Lords and Ladyes in their liues,

 Haue red it for restoratiues:

 The purchase is to make men glorious,

 Et bonum quo Antiquius eo melius:

 If you, borne in those latter times,

 When Witts more ripe, accept my rimes; 

 And that to heare an old man sing,

 May to your Wishes pleasure bring:

 I life would wish, and that I might

 Waste it for you, like Taper light.

 

 for restoratiues = as a medicine    purchase = benefit     Et bonum quo Antiquius eo melius = And the older something  

 good is, the better(Latin) And that = And if     Waste = Use it up     Taper = Candle

 

 

雪が降り出す頃になると廊下に飾っていた一枚の絵、雪も解け、いまはそれを他の絵と取り換えるとき。

 

はみ出すほどの大胆な構図と色使い、石地蔵のそれぞれの表情に心が洗われます。

 

息子が小学校低学年時に描いたもので、人を超えるものへの絵心が天に届く筆使い、そう、子どもはみな天才です。

 

で、ガウアーあの世からこの世へ立ち戻って語る昔懐かしの夜語り傘地蔵。

 

昔々、ここはある山奥の村、お爺さんとお婆さんが住んでいました。子どもが育ちにくい時代で、生まれた子どもたちはほとんど赤ん坊のときに亡くなりました。年をとり、冬篭り期間に神棚に備える食糧確保もままならず、年の瀬を迎えてもお餅を買うこともできません。家のなかにはお茶と漬物以外何もありません。二人を助けてくれる村人はいません。みんな貧しかったのです。

 

土間に蓑に使われるスゲの葉が置かれていました。「そうじゃ、あのスゲで傘をこさえよう。餅が買えるかもしれん」そう言って、お爺さんとお婆さんはスゲ笠を作り始めました。剝(へ)ぎ板に和紙を貼って漆を塗る立派な傘ではなく、農作業や四国八十八箇所を巡るお遍路さんが頭に被るあの雨傘日傘のスゲ笠です。

 

 「ほんじゃ、まあ、婆さんや、行ってくるわい」「雪じゃけん、気をつけてな」外は冷たい雪の降る大晦日の朝、お爺さんはお婆さんに見送られて、編み上げたスゲ笠を背負って町に出かけて行きました。 

 

山を下った村のはずれに7体のお地蔵さまが並んでいました。首に赤いよだれかけをした可愛らしい石のお地蔵さまにお爺さんとお婆さんはいつも手を合わせていました。お地蔵さまは子どもの身代わりになったり子どもを守ってあげたりするので、お爺さんとお婆さんにとってはありがたい仏さまだったのです。この日もお爺さんは雪のなかで立ち止まって、婆さんに餅を持って帰れますようにとお地蔵さまに祈ってから町に向かいました。 

 

町に着いたお爺さんは「傘はいらんかえ〜」と声を張り上げて回りました。笠の数はわずか5体の一山でしたが、お爺さんからスゲ笠を買う人はいませんでした。「大晦日に傘を買う人はいないじゃろう。 せっかく手伝ってもろたのに、婆さん、がっかりするじゃろな」

 

仕方なくお爺さんは笠を売ることをあきらめ、持ってきた笠をそのまま背中に背負って、 とぼとぼと家に帰って行きました。しめ縄で囲われている峠の大岩に差しかかった頃には雪は本降りになっていました。大岩さまにぺこりと頭を下げて町はずれまでやってくると猛烈な吹雪になりました。「前がよう見えんのう、白い鬼になって惨めな爺を押しつぶそうってのかい。心配せんでええ、婆さんや、待っていてくれ。早く帰るのでのう」

 

ひょいと顔を上げると、そこにあの7体のお地蔵さまが おつむと肩に真っ白な雪を被って立っていました。「お地蔵さまは大雪の日も野っぱらに立ってわしを慰めてくださるんかいのう。おお、なんとしたこと、吹雪のなかで寒かろうに、やれ、これでは冷たかろう」お爺さんはお地蔵さまに積もった雪を一体づつきれいに払ってあげました。雪は後から後から激しく降ってきます。「そうそう、ちょうどいいものがありますでな。こんなもんでもちょいのしのぎにはなりましょう。この傘を被って雪をしのいでくだされ」お爺さんは持っていた笠をそれぞれのお地蔵さまの頭に被せてあげました。自分の傘も脱いで被せてあげました。

 

最後のお地蔵さまには笠がないことに気がつきました。「はて困った、このままじゃかわいそう、寒かろうに。そうじゃ、お地蔵さま、汚い手拭いで申しわけねえが、これで勘弁してくだせえ。笠ほどには役に立たないが、いくらかはしのげますよってな。ごめんくだせえましよ」お爺さんはそう言って被っていた手拭いを7体目のお地蔵さまの頭に被せて、手拭いの端を顎の下で結んであげました。

 

 「あらま、どうしましたの?手拭いまで売らっしゃったのかい?」頭を手で覆いながら帰ってきたお爺さんを見てお婆さんが言いました。「婆さん、すまないねえ。笠は売れんじゃった。でもな、帰り道にお地蔵さんが雪被って寒そうに立っとったで、スゲ傘をぜんぶ被せてやったわい」「へえ、それはまあいいことを。ようござんしたねえ。きっと喜んでおいででっしゃろ。お地蔵さまの役に立つならお餅なんてなくてもねえ」温かいお茶をすすりながらお爺さんとお婆さんはニコニコしていました。 

 

雪が冷たく硬くなっていくような大晦日の夜更けです。家の外から何やら賑やかな掛け声が聴こえてきました。お爺さんとお婆さんは申し合わせたように目を覚ましました。「なんじゃろか?」「鬼かもしれんが、景気のええ歌声もするのう」

 

自己満足して舞い上がる天上界〜〜〜苦楽入れ替わる人間界〜〜〜他人を責めるばかりの修羅界〜〜〜本能剥き出しの畜生界〜〜〜欲望に身を焦がす餓鬼界〜〜〜貪り怒り愚痴るばかりの地獄界〜〜〜男になるぞ〜〜〜女にもなるぞ〜〜〜天人にもなるぞ〜〜〜龍神にもなるぞ〜〜〜鬼にもなるぞ〜〜〜お爺さんの家はどこだ〜〜〜傘のお礼を届けに来たぞお〜〜〜 

 

掛け声は二人の家のほうに向かってきます。家の前まで来ると、ドッシーン、ズッシーン。そっと覗くと雪はやんで月の光が射しています。雪明りのなかに現れたのはスゲ傘を被った6体のお地蔵さまと手拭いを被った1体のお地蔵さま。橇に載せた米俵や野菜、魚、お酒、小判、お正月用の飾りもの、ご馳走、お菓子などをうたいながら家の軒先に山のように積んでいます。

 

作物に恵まれますように〜〜〜家内が安心安全でありますように〜〜〜災厄がありませんように〜〜〜旅しても無事でありますように〜〜〜長生きして天国に生まれ変りますように〜〜〜うたいながら帰って行くお地蔵さまの後ろ姿に手を合わせて、お爺さんとお婆さんは、やれありがたやオンカカカビサンマエイソワカと繰り返し唱えました。「オン」は帰命で、命の帰着点、南無と同じ、「カカ」は呵々大笑やカカさまという呼び名、微笑むお地蔵さまのこと、「カビサンマエイ」は尊いお方への讃歎、「ソワカ」は言葉の成就を願うことを、お爺さんもお婆さんもよく知っていたのです。 

 

手拭いでほっかむりをしたお地蔵さまが小さな包みを戸口に置いて行きました。包みを開けると、なかには真新しいお地蔵さまの染め絵の入った手拭いが何枚かたたんでありました。「あれあれ、お爺さんが気の毒だと思わっしゃったんじゃろか、こげなかわいげなことを」二人が荷物を家のなかに運び入れると、あっという間に正月を迎えるためのものでいっぱいになりました。二人は楽しそうにお地蔵さまがうたっていた歌を真似てうたいました。

 

東の空がうっすらと明るくなっり、真っ赤な太陽が白い雪を金色に照らし始めました。 

            

 一つとや ひと夜明くれば にぎやかで にぎやかで
 お飾り立てたり 松飾り 松飾り〜〜〜

 二つとや ポッタン ポッタン餅ついて 餅ついて
 一つあげたや婆さんに 婆さんに〜〜〜

 

お地蔵さまからの贈り物のおかげで、お爺さんとお婆さんは近所の子どもたちとつきたてのお餅をおいしくいただいて、新しい年を迎えることができました。

                                                                                         

ここでとっぴんぱらりのぷうとはまいりませぬ、ご想像をいましばらく。

 

称賛を聴きつけて妬み嫉む悪心の輩がぞろぞろと列をつくってお地蔵様参り、頭にスゲ傘や手拭いを被せる者が相次ぎました。わが利を祈り願う者には天も顔をそむけましょう。この物語は人を光輝かせるもの、吹雪に晒される石地蔵を哀れと思う心は天に通じるのです。東の果ての国の政治家の驕りたかぶり、人びとの心の緩みを案じます。いずれあらためてよみがえり、あなたさまのご用を務めます、灯ともなって。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読
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| - | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
エイヴォン川の白鳥

 

 

早いものですね、もう節分の季節。

 

でも、まだ外気は冷たく、散歩のし過ぎは足腰を痛めることにも。

 

何が何でも1万歩でなく、軽やかに節操よく歩き、飲み食いもお喋りも節度をもってほどほどに。

 

シェイクスピアが没して7年後の1623年に刊行されたファースト・フォリオの序詞にエイヴォン川の白鳥というシェイクスピアへの美称がありますね。

 

このように讃えたのは、シェイクスピア没年の1616年に英国初の桂冠詩人(poet laureate)となって王室に役職を得たシェイクスピアの友人、ライバル、詩人・劇作家のベン・ジョンソン(1572-1637)です。

 

ジョンソンは、「シェイクスピアは一つの時代の人ではなく、あらゆる時代の人である」(He was not of an age, but for all time)とシェイクスピアが死後獲得するであろう栄誉を見事に言い当てました。

 

実際シェイクスピアほど普遍性と可変性に満ちた作家はいません。

 

あらゆる時代と社会に生き続けるシェイクスピアの繁殖性、持続性の在り処は?


その前にジョンソンのもう一面のシェイクスピア評価を一瞥。

 

シェイクスピアに接する一方、1行の無駄もないと称賛されるシェイクスピアのせりふを「1000行は削ってもよかった」、「彼には溢れるほどの才能があったが抑制がきかなかった」、「ラテン語もギリシア語も知らなかった」などとケチをつけています。

 

シェイクスピアの天賦の才能に対してはちょっと複雑な心境だったようで、自分は天才に近い秀才だがシェイクスピアは天才だと思うと胸中穏やかでない、そんな思いが心底賛辞を呈することができなかった理由になっているのかもしれません。

 

自分はちょっと役不足かと考えることができない、われこそはという思いが強いと相手の顔に墨でもなすりつけたくなる、相手に不足を見つけて自分と同等もしくは自分より劣っていると見たい、そんな了見か。

 

狭量、猜疑心から脱出できないハムレット、レオンティーズ、リアらの自己否定は熾烈を極めましたが、政治家は自己を否定しない、人の話を聴かない、スポーツ選手のように結果を出すと宣言して突き進む、そんなタイプの指導者が多い。

 

若山牧水にこんな歌があります。

 

   白鳥は  悲しからずや  空の青  海の青にも  染まずただよう  

   幾山河  越えさりゆかば  さびしさの  はてなむ国ぞ  きょうも旅ゆく〜  

 

そう、悲しい白鳥は自己否定する必要があります。

 

純粋、頑迷という名の孤立を克服するために、成長するために、変化するために、新しい命を得るために、白鳥は空の青、海の青に染まらなければなりません。

 

シェイクスピアは人間の同化、変貌ぶりを描いた詩人・劇作家でした。

 

人間の幻想を生む素地を丸ごと掘り起こし、すべてを大きな命に橋渡ししたのです。

 

シェイクスピアの人間観、世界観は、永続する世界と煩悩の世界、自然界と超自然界、この世には弁証法で動く対立軸があることをビビッドに提示した、そんなところを哲学者ベーコン(1561-1626 )は「シェイクスピアの芸術美はすぐれている、そのすぐれた均整には何かしら奇異なもの(strangeness)がある」と言いました。

 

奇異なる多元的なもの。

 

現実の世界とロマンの世界の融合、遠く離れているものを連結させ、結び付いているものを切り離す予測不能な手法、グロテスクとかアイロニーとか言われるもの、美しく滑稽かつ神秘的な、芸術における不一致の一致、不調和の調和、つまり奇異なるものを生み出していると。

 

シェイクスピアは、社会での逸脱行為も、その阿呆ぶりと狂気の懲罰として滑稽化して笑いのめし、観客の社会への柔軟な対応力を回復しようとしたのです。

 

フォールスタッフが王を演じて自分を笑いの対象にするのも、自分の未熟さ、過ち、浅はかさ、愚かさの自嘲であると同時に、その鋭い風刺力をもって自己を客観化する、そんな度量の深さをも示そうとしたのです。

 

フォールスタッフが王となったヘンリーに拒絶されるのは、自己を客観視する目を失ったからです。

自己を客観視できない人間は無謬論や全能信念に陥り、盲目となり、この世の舞台でさまざまな役を演じ分けて生きて行くことができなくなる。

 

欲望、貪り、怒り、執着の煩悩濁から現状維持か打破かの岐路に立って判断できず、濁世に濁るしるしとして「ふり」に走る。

 

天地におはしますよろづの神や仏を軽んじ無視することはゆめゆめなきことなりと心得て祈ることさえできるならば、さまざまな神々がこぞってこの身を守り、うごめく邪悪なるものを近づけないようにしてくれるでしょう。

 

悲しいかな、よろずの天の神、地の神に帰依してはならない、帰依するのは God ですよ、ほかに God  がいるわけがありませんなどと言い出したり。

 

白鳥は、無垢純白の詩人という純粋性を意味するものであってはなりません。

 

純粋性の称揚は、頑迷、狭隘化、独善性、排他性、不寛容性に陥ります。

 

いや、空に染まり海に染まり山を見る寛容性を推し進める先にも、陥穽(落とし穴)はあるかもしれません。

 

無節操になるという危険性が。

 

無節操が寛容と誤認され、独善的排他的な不寛容が純粋と誤認されるいま、エイヴォン川の白鳥は純粋性を保持しつつも排他的独善性に陥らないことの象徴として輝かなければなりません。

 

シェイクスピアはイニシャルGの God でなく gods  を多用しました。

 

World-wide に付き合い、 World-deep に成熟し、なお可変性を感じさせるシェイクスピアのような傑物はそうざらに出てくるわけではありません。

 

 異時間つまり時代が変わり、異空間つまり場所が変わり、異文化つまり言葉が変わっても、シェイクスピアは変化し、成熟し、成長する多元的存在であり続けるでしょう。

 

「存在することは変化することであり、変化することは成熟することであり、成熟することは無限に自分自身を創造することである」と言ったのはフランスの哲学者ベルグソン(1859-1941)でした。

 

生きて行く上で一番の財産になるのは、体験です。

 

生まれてから現在に至るまでのあらゆる体験がすべて潜在脳に蓄積されると言われています。

 

目にしたり耳にしたり嗅いだり触ったり味わったりした五感の記憶が集積する潜在脳に手を届かせて、シェイクスピアは十方衆生を観客として言葉を紡ぎ出したのです。

 

求められる無垢の純白、節操あるいは節度は、変化し成熟する多様性のなかにこそ展開されるものではないでしょうか。

 

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読 

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マーロウ = シェイクスピア説―『ヘンリー6世』(第3部) 2幕5場

 

 

大寒入り、冷たい乾燥した風が鼻と耳を直撃します。

 

マスクを、寝るときもマスクを。

  

昨年末、シェイクスピアの史劇3部作『ヘンリー6世』(1591)は大学出の才人クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe、1564-93)との合作であると発表されました。

  

マーロウとシェイクスピアの作品を他の劇作家による作品と比較して、コンピュータで各語の字数や語彙、前置詞の用法や特殊な用語の使用頻度などを調査した結果、対象となった何人かの劇作家のなかでマーロウとシェイクスピアだけが語彙や使用頻度が一致し、しかも一文の平均語数が4.2と同じ数値を示したのだそうです。

 

以前から複数の劇作家の合作あるいは改作であるという説はありましたが、今回の調査で、階級に固有の言い回しと個人の言葉使い、他の劇作家が多用する単語や表現を特定した上で、マーロウが3部作の一部を書いたと結論づけられたのです。

 

第1部は主人公が誰なのかはっきりしませんが、第2部、第3部では多様な性格を有する女性や庶民が対等に向かい合わせられ、国の命運が王によって左右される過程が描かれています。

 

もともと『ヨーク公リチャードと善良な王へンリー6世の真の悲劇』と題された『ヘンリー6世』(第3部)から、27歳の頃にシェイクスピアが書いたせりふ。 

 

 

 このいくさはあけがたの戦いに似ている、

 消えてゆく雲が、明るさを増す光と争い、

 羊飼いが息を吹きかけ指を温める、

 はっきり朝とも、夜ともつかぬ時刻の。

 いまはこっちになびき、勢いを得た海のように、

 潮の流れに押されて、風と争う。 

 今度はあっちになびき、同じ海に押されて、

 風の勢いに退却させられている。

 ある瞬間に、波が勝つ。次の瞬間に風が勝つ。

 いま、一方が優位に立つ。次は、他方が優位に立つ。

 両者は勝利者たらんと奮闘する、胸突き合わせて。

 だが両者とも勝者、敗者の決着がつかない。

 こうしてバランスを保っているこの底なしのいくさ。

 この小さな丘に腰を下ろそう、

 神のみ心のままに、勝利が訪れますように。

 妃のマーガレットばかりか、クリフォードまでが

 私に戦場から離れていろと言った。二人は言い張る、

 私がいないほうが勝てると。

 死んでしまいたい、それが神のみ心なら。

 この世には、苦しみと悲しみしかないのだから。

 ああ、神よ!私にはしあわせな人生に思える、

 貧しい羊飼いの身の上で暮らすことのほうが、

 丘の上に腰を下ろし、いま私がしているように

 日時計の目盛りを巧みに刻みつけ、一つひとつ、

 それを見て時の流れが分かるほうが。

 何分経てば1時間になるか、

 何時間経てば1日の終わりになるか、

 何日経てば1年がひとめぐりするか、

 何年経てば人の一生が尽きるか。

 それが分かると、時間の割り振りができる。

 何時間、羊の世話をすればいいか。

 何時間、休めばいいか。

 何時間、考え事をすればいいか。

 何時間、遊べばいいか。

 何日経てば、雌羊は子を孕むか。

 何週間経てば、母羊は子を産むか。

 何年経てば、羊の毛を刈り取れるか。

 こうして分、時、日、月、年と、

 時がその使命を終えると、

 白髪頭を、静かに墓穴に横たえる。

 ああ!こんな暮らしを何と言おうか?楽しい?素晴らしい?

 サンザシの茂みは心地よい陰をつくって

 羊飼いたちを覆い、無垢な羊の群れを見守る、

 豪奢な刺繍の天蓋がつくる陰よりも

 王たちには、臣下の謀反が恐ろしいから?

 おおそう、その通り。一千倍も居心地がいいだろう。

 つまりは、羊飼いがかじるお粗末なチーズ、

 皮袋から飲む冷たく薄めた酒、

 日ごとの昼寝、爽やかな木陰での、

 心安らかな、まどろみは、

 王が味わう眠りよりは遥かにましだ。

  黄金の杯に注がれる酒肴、

 贅を凝らしたベッドで横になるよりは、

 心労、疑惑、裏切りにかしずかれて。

 

              2幕5場

 

 

Hen. This battell fares like to the mornings Warre,

 When dying clouds contend, with growing light,

 What time the Shepheard blowing of his nailes,

 Can neither call it perfect day, nor night.

 Now swayes it this way, like a Mighty Sea,

 Forc'd by the Tide, to combat with the Winde:

 Now swayes it that way, like the selfe-same Sea,

 Forc'd to retyre by furie of the Winde.

 Sometime, the Flood preuailes; and than the Winde:

 Now, one the better: then, another best;

 Both tugging to be Victors, brest to brest:

 Yet neither Conqueror, nor Conquered.

 So is the equall poise of this fell Warre.

 Heere on this Mole-hill will I sit me downe,

 To whom God will, there be the Victorie:

 For Margaret my Queene, and Clifford too

 Haue chid me from the Battell: Swearing both,

 They prosper best of all when I am thence.

 Would I were dead, if Gods good will were so;

 For what is in this world, but Greefe and Woe.

 Oh God! me thinkes it were a happy life,

 To be no better then a homely Swaine,

 To sit vpon a hill, as I do now,

 To carue out Dialls queintly, point by point,

 Thereby to see the Minutes how they runne:

 How many makes the Houre full compleate,

 How many Houres brings about the Day,

 How many Dayes will finish vp the Yeare,

 How many Yeares, a Mortall man may liue.

 When this is knowne, then to diuide the Times:

 So many Houres, must I tend my Flocke;

 So many Houres, must I take my Rest:

 So many Houres, must I Contemplate:

 So many Houres, must I Sport my selfe:

 So many Dayes, my Ewes haue bene with yong:

 So many weekes, ere the poore Fooles will Eane:

 So many yeares, ere I shall sheere the Fleece:

 So Minutes, Houres, Dayes, Monthes, and Yeares,

 Past ouer to the end they were created,

 Would bring white haires, vnto a Quiet graue.

 Ah! what a life were this? How sweet? how louely?

 Giues not the Hawthorne bush a sweeter shade

 To Shepheards, looking on their silly Sheepe,

 Then doth a rich Imbroider'd Canopie

 To Kings, that feare their Subiects treacherie?

 Oh yes, it doth; a thousand fold it doth.

 And to conclude, the Shepherds homely Curds,

 His cold thinne drinke out of his Leather Bottle,

 His wonted sleepe, vnder a fresh trees shade,

 All which secure, and sweetly he enioyes,

 Is farre beyond a Princes Delicates:

 His Viands sparkling in a Golden Cup,

 His bodie couched in a curious bed,

 When Care, Mistrust, and Treason waits on him.

 

  poise = balance     Swaine = Shepherd      Eane = Give birth      

       wonted = customary     Delicates = Delicacies    Viands = food

    a curious = an ornate

 

 

主人公が誰であるかを観客に明示する明確に意図を感じさせる独白ですが、ここにもマーロウの筆が一部書き添えられているのかどうか。

 

一部どころか、作品はすべてマーロウのものであるというシェイクスピア=マーロウ説があります。

 

シェイクスピアと同年の生まれであること、早くから人気劇作家としての地位を確立して1593年に死去したが、この年の4月にシェイクスピアの長編詩『ヴィーナスとアドーニス』の刊行許可が下りたこと、俳優としてのシェイクスピアに関する記録が1594年12月から始まっていること、これらの公的な経歴の始まりがマーロウの死と一致すること等から、マーロウの死は実は偽装で、生き延びてシェイクスピアという名前で劇作を続けたというもの。

 

ケンブリッジ大学在籍中から無断長期欠席、無神論者(当時は犯罪)、同性愛者、スパイの嫌疑を掛けられており、当局により逮捕され死刑になる可能性が高まった、そのためにパトロンのサー・フランシス・ウォルシンガム卿(エリザベス1世に仕えた国務大臣、秘密警察長官、国内外に情報網・監視網を張り巡らせ、反エリザベス陰謀の摘発に当たった)が中心となって偽装殺人事件を演出した、つまり、1593年に居酒屋で口論から喧嘩になり、ナイフで刺されて死亡し無縁墓地に埋葬されたが、殺害犯がウォルシンガムの従兄弟であった上マーロウの周囲には舞台関係者が大勢いたため偽装殺人事件が演出され、イタリアに逃げたマーロウはその後シェイクスピアという筆名で執筆活動を続けたという筋書き。

 

マーロウが1593年以降も存命であったことを示す証拠として提示されるのが、1599年と1602年にスペインのバリャリッドでクリストファー・マーロー(Christopher Marlor)を名乗る人物が逮捕されていたことを記録する外交文書、加えて『ヴェニスの商人』(1596)はマーロウの作品『マルタ島のユダヤ人』(The Jew of Malta、1589年?)を種本としていることなど。

 

とは言っても、文体や完成度に違いがあり、シェイクスピアの複雑な人物造形の才能や散文および弱強5歩格(Iambic pentameter)とそれ以外の韻律を用いた律動転換の技術、主題の設定、ダブルプロットの妙、喜劇作家としての天賦の才能などの痕跡は、マーロウの7本の戯曲には見出せないというのが大方の見方になっています。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読 

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