シェイクスピア朗読

シェイクスピアについて徒然に綴るブログです
新学期の憂鬱

 

 

休息の夏休みが終わり新学期を迎え、子どもたちの自殺が相次いでいます。

 

夏休み明けの中高生の多くが、宿題ができていない、授業について行けない、またいろいろ言われる、何か言うとこっちが悪いと言われる、いじめに遭うかもしれない、1人ぼっちに、疎外感、進路が決まらない、先生は理解してくれない、学校に行くのがつらい、苦しい、しんどいという理由から。

 

偏差値競争とランクづけ、効率重視の経済第一主義から生まれる単一価値の押し付けが目に余る。

 

生じる格差と不安が子どもたちを直撃して学校生活不適応と学業不適応を生み、登校拒否を惹き起こしているのです。

 

そんななか私は夜の市役所のホールで週2回、市学習教室で中高生の学習を支援しています。

 

いろんな子どもたちがやってきます。

 

ひとり親の外国人、ハーフ、不登校で教科書が手元になく教科書を読んだことがない、あるいはオキベンしている、先生や友だちと言葉を交わせない、勉強する意味が分からない、となると、ゼロベースから始めるしかありません。

 

ところが、聴く、離す、読む、書くの基本学習ができていないため、どんなに耳、口、目、手を使うことを強調しても理解してもらえない。

 

余計な水をしたたるほどに吸っているスポンジをギュッと絞る、あるいは逆にカラカラのスポンジに水分補給することが課題。

 

教科書を持って来ない子にはお手上げ、だけれども、この学習教室にはやって来る、だからなんとかしてあげなければなりません。

 

英語教科書の巻末資料(いろいろな職業)のイラストを見せて、What do you want to be ?と問いかけてみると、反応がかえってくることもあって、そこらあたりを話の糸口にしたり。

 

なかには成績トップの子もいて、言われる通りにきちんと予習復習をして、毎日時間をつくって教科書2ページ分を繰り返し音読し英文を書いています。

 

学習教室はあくまで学習するところですから、一人ひとりが自ら進んで学び取ろうとしないかぎり成立しないのです。

 

ご存知でしたか?ひとり親家庭の貧困率はOECD(経済協力開発機構)諸国なかで日本は最悪最低、劣悪な生活環境に置かれて多くの子どもたちが将来を否定された気分になっているらしい。

 

この現実を踏まえて繰り返し言わせていただきたい。

 

若者が安心安全に生活し安定した教育機会が与えられることが日本の将来を決する、高い教育を受けることが自分の健康に留意させることになる、犯罪をなくすことにもなるのだと。

 

中高生はのびのびと自由奔放に生きていい、何の制約も制限も加えられないで夢を追い続けていい、地を駆ける自由、空を飛ぶ自由、水に潜る自由、誰かが好きになる自由、何かが好きになる自由、歌う自由、踊る自由、奏でる自由、知る自由、体験する自由、挑戦する自由、自由のぜんぶが保障されていい、ただし学習教室でスマホをいじるのだけはやめてくれ。

 

日本の戦略目的が見えません。

 

極端な超高齢化社会と他殺と自殺常態化社会を迎えて、税金の30%強が高齢者対象の年金、医療、介護の社会保障費に使われ、国防への安全保障費が増額され、その分若者の教育費や学術振興費に使われる割合が狭められている、この現実をこのまま放置していていいはずがありません。

 

高齢者は、身体運動を行ない、医者や薬に頼らない健康づくりを、できる範囲内でのボランティア活動を。

 

歴史に学べず間違いを繰り返しているようにしか見えない社会になってもなお、私たちは価値観の修正と発想の転換を求めない。

 

教育を第1には考えない。

 

環境がどう変わろうとも若者は自由に考え行動することを制限されてはいけない、どのような環境に置かれても勉学の機会均等だけは保障されなければならない、それが教育権というもの。

 

教育は周囲が与えるものではなく自ら気がつくこと、好奇心に駆られて思いを巡らし行動を起こす、当然行き詰まり、前につんのめる、夢は潰える、が、それはそれでいい、痛さを教訓にすればいい、痛い失敗が当人を大人にするのです。

 

子どもたちにはたくさん失敗してもらって、恐れを知らない臆することのない気力をつけてもらわなければなりません。

 

ですから、失敗した子どもが排除されないような社会、おちこぼれのない社会、何か好きなことをコツコツ積み重ねて行けば大きなところに辿り着けるような社会、日々努力を積み重ねれば必ず報われる、そんな信頼できる社会を築くことが大人の責任、政治の責任というものでしょう。

 

イングリッシュという異言語学習を通して母語を振り返る、そんな言語活動から自己分析と自己認識を深めてもらいたいと、そう思うのはシェイクスピア朗読と同じ。

 

ときどき国語の教科書を朗読してもらうのは言葉の学習が最強の健康法になるからです。

 

まとまった文章を読んで考える力がつけば、興味を持って何かに挑戦しようという気持ちになるでしょうし、自分もまとまった文章を書こうと思うでしょう。

 

ひらがな、かたかな、漢字を使って文章を書けば推理・思考に磨きがかかり、ものごとの高次の性質を知りたいと思うようにもなるでしょう。

 

それにしても気がついて驚いた、中学校の英語教科書にシェイクスピアがまったく登場しない。

 

どういうことなのか。

 

英語に変化が起こったのはシェイクスピアの少し前、シェイクスピアの英語はモダーンイングリッシュ、つまり古文でなく現代文、いまの文法、いまの語彙なのです。

 

英国では小学生上級生ががシェイクスピアの原文朗読をしています。

 

中学生はある部分もう大人、『ロミオとジュリエット』を読んで人とこの世を知り、対人関係を学び、恋愛のお作法を身につけ、生きること死ぬことまでを含めて人生について深く考えてもらう必要があります。

 

欧米並みに。

 

世界の古典ともいうべきシェイクスピアをふんだんに盛り込んだ読み応えのある英語教科書が必要。

 

シェイクスピアから英語を学び、自己管理の仕方を学び、真剣に生きることの意味を探ってもらいたい、ゆめゆめ自殺など考えてほしくない。

 

日本語もイングリッシュも勉強して言語能力を磨き、考える力をつけて、自分にふさわしい仕事を、世間の価値観に囚われない、義務感に囚われない、自分なりの夢や希望を追い続けられる職業を、そんな夢を実現するために高校に行こう、大学にも行こう、そう思えるようにサポートしてあげたい、自分を少し変えるといろんな楽しいことが始まりそうだ、やるぞと思えるように。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読

http://shaks.jugem.jp/

 

 

| - | 08:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
一千万人を代弁−『ジョン王』3幕1場


1595年頃に上演された『ジョン王』の主人公はマグナカルタにかかわった王様で、ロビンフッドの敵として名高い王様ですが、作品にはこれらのことは一切触れられていません。

 

多視点の典型とも言うべき劇で、英仏間の争いから嫁姑の確執、和議、謀叛、戦争、教皇の介入、戴冠式、王子アーサーの死、ジョンの毒殺、和平に至るまでの事件が描かれ、猛烈な勢いであれかこれかの選択を迫られるため観客は困惑させられる、そんな展開。

 

観客の予断はことごとく裏切られて、浮かび上がってくるのは時代の実相と不毛な状況。

 

天にましますお天道様からすれば、こんな人間界のごたごたなど何ということはない、見苦しい土くれだけの地上が累々と広がっているだけ、せめて光を投げかけてやろうかくらいのことにしかなりません。

 

3幕1場の冒頭でジョン王(フランスのフィリップ王)が言っています。

 


 その通りだよ(お前)このめでたい日を、
 いつまでもフランスの祝日にしよう。
 この日を祝って輝く太陽は
 その進路で足をとめ、錬金術師の役を演じ、
 美しい目の光で
 見苦しい土くれの地上を輝く金に変えてくれるだろう。
 年が巡ってこの日が来たら、
 必ず、祭日に。  

  

                                 3幕1場

 

 

Fran. 'Tis true (faire daughter) and this blessed day,

 Euer in France shall be kept festiuall:

 To solemnize this day the glorious sunne

 Stayes in his course, and playes the Alchymist,

 Turning with splendor of his precious eye

 The meager cloddy earth to glittering gold:

 The yearely course that brings this day about,

 Shall neuer see it, but a holy day.

 

    Stayes in his course = Stands still     Alchymist =

  He who sought to turn base metals such as lead into gold

 

 

見苦しい土くればかりの地上、英仏の和議というめでたい日は破約の日にすぎませんでした。

 

お前がそばにいなかったらアーサー殺しは思いつかなかったとジョンは側近のヒューバートを責め立てましたが、誰に責任があるというのでもない、アーサーの死は不条理そのものだった。

 

あれこれの悲嘆はすべて語り古された物語にしかならず、欺き欺き返される恥の上乗りがこの世をみっともないものにして、喜びとなるものは何一つない。

 

それをひととき輝かしてくれるのが太陽、悪事に走り憎しみにとりつかれた人びとの心をひととき温かく溶かしてくれるのです。

 

劇の場は千客万来のグローブ座であり、雑多な観客に向かってシェイクスピアは英語という土俗語に乗せて時代の実相と不毛な状況を語り掛かけました。

 

土俗語の一つひとつのせりふを観客は自分に向けられた言葉として理解しました。

 

ブリテン島ではいくつかの異なった言語が使われていましたが、シェイクスピアはイングリッシュという一種類の地方の土俗語しか使わなかったのです。

 

にもかかわらず、言葉の違う人たちにも理解してもらうことができた、母語を異にする人びとにも瞬時に理解してもらうことができた。

 

どう説明したらいいのか。

 

一種類の土俗語の音声によってイングランド人からスコットランド人、ウェールズ人、そして大陸のベルギー人、オランダ人、フランス人の観客にも理解してもらえたということは、シェイクスピアの言語が言語の違いを超えて一千万の意味を担ってそれぞれの観客に分かるように届けられた、観客の人数に応じた音声が、一気に、一時に、各界、各層、各地の観客に同じ意味を担ってそれぞれにふさわしいメッセージとなって届けられたということになるのか。

 

観客のみんなが知っているあれこれの過去の物語を下敷きにしているとは言っても、何とも神業的なやり方ではないかと思われますが、事実その通りだったのです。

 

一種類の土俗の言語で表現されたせりふが聴き手の耳に届く際、自分のためだけに発せられたとして受け止められ、自分に合わせてくれていると感じられ、自分にぴったりの意味内容を担ってスッと理解できる、ということは、言い換えれば、舞台の声が太陽の光を受けて発せられたかのごとくに、あらゆる人びとがそれぞれに分かる範囲内で的確に理解されたということになるでしょう。

 

自分一人のために語られるせりふというのは、舞台の声が自分にとって、ああ、そうなんだと納得のいく声ということになり、そういう声になるためには自分のためだけに語られていると感じられる観客側の積極的な受容精神が求められることにもなります。

 

上に輝く太陽が足をとめて見苦しい土くれに光を届けて一瞬明るく照らし出すとは、人びとの祈りや願いが天来の光となって観客の一人ひとりに届けられる、いわば太陽が錬金術師の役を演じているように感じられるということに

 

シェイクスピアは一千万人を代弁するとよく言われますが、煎じ詰めれば、舞台の言葉を観客がどのように主体的に受け止めるかの問題に帰着するのです。

 

シェイクスピアは人間の愚行を観察してその姿をそのまま丸ごと表現しよう、繰り返される愚行も太陽の光に照らされなければならないと考えたのです。

 

けれども、それは劇作家自身の愚行を解放したいという思いもあったのではないでしょうか。

 

そんなシェイクスピアの思いが役者を通して観客に届けられる、このように受け止められるとき、せりふが太陽の光を受けてストレートに観客に届けられるのです。

 

一千万人の声が太陽の光を浴びて届くとはシェイクスピアの思いが役者の声を通して聴き手に届くということ、このことはシェイクスピア朗読をするときにしっかり肝に銘じておかなければなりません。  

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読             

http://shaks.jugem.jp/

 

 

| - | 17:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
読まれるシェイクスピア

 

 

王政復古によってシェイクスピア劇は復活しましたが、すっかり様変わりしてしまいました

 

作者自身の意図を純粋なかたちで再現しようとか、偶然性に満ちた猥雑で侵犯性の強い劇をそのまま再生させようとか、観客と同じ空間を共有するという演出などからは程遠いものになりました。

 

高い教育を受けて財を成した新興市民層が社会の中枢権力を握り始めたことと関係します。

 

シェイクスピアが彼ら中産階級の「教養」というあたりで合理的に再編成されたのです。

 

当時の文学者たちが改作テクストの横行を許したのは、この時期の中産階級読者の知的レベルに合わせ、のし上がってきた出版資本主義がこれを後押ししたのです。

 

こうして、読まれるものとしてのシェイクスピアが出現し、実際に劇場で上演されるシェイクスピアとの差は広がる一方となりました。

 

上演されたシェイクスピアに目を向けると、1741年にリチャード3世を演じて評価を高め、後にドルーリー・レイン劇場の経営を一手に握ったギャリック(David Garrick, 1717−79)と、1814年にシャイロック役で熱狂的な評価を得たキーン(Edmund Kean, 1787-1833)がいます。

 

詩人コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge,1772-1834)がキーンを評して、稲妻の閃きでシェイクスピアを読むがごとし、つまり、シャイロックのユダヤ人差別に対する恨み辛みの声と攻撃的な動きはさながら読むがごとき演技であったと言ったのです。

 

18世紀のシェイクスピアがいかに「読まれるシェイクスピア」として、新聞、雜誌、小説、エッセイ等の流行のなかに埋没していたかが分かります。

 

ついでに書き添えておきましょう。

 

『ヴェニスの商人』は4組のカップルのそれぞれの友愛、親子愛、恋愛、結婚等を主題とする愛の四重奏とでも言うべき喜劇ですが、ギャリック、キーン以来、シャイロックをいかに演じるかで「シェイクスピア役者」と称されるようになったために、作品は歪められ、歪みはいまも是正されないままにシャイロック劇に。

 

シェイクスピア役者たちの上演は時代考証に忠実で、エリザベス朝の衣装や装置を大掛かりに使ったものが多く、その分シェイクスピアのテクストは大幅にカットされたり変更されたりしました。

 

ギャリックは自由気ままにシェイクスピアの作品を翻案し、『ハムレット』については、あの高貴な芝居をがらくたまみれの第5幕から救わずに舞台を離れることはできないなどと言い、墓掘りの冗談、オズリックの場、フェンシングの試合は不要だからと削ってしまったのです。

 

そんなこんなの邪道も含めて、時代の一つの習慣としてシェイクスピアに読み耽けることが流行して、シェイクスピアの神格化を促す事態となったのです。

 

何をか言わんや、劇的思考力の破壞が起こったのです。

 

シェイクスピアを自分に都合のいいように読むことで満足するのであれば、五感を揺さぶるエンターテインメントを楽しみましょうどころの話ではなくなってくる。

 

シェイクスピアを読んで教養が高まった気分に、自分の頭で知的論理的に整理して心を滿たしているに過ぎない。

 

この自己満足の傾向はシェイクスピアのソネットについても言えることで、ゴシップまがいの解剖分析などという手法がシェイクスピアの詩理解に通用するはずもなく、この手の読む態度がいまもシェイクスピアの詩の品格と詩人シェイクスピアの栄誉を傷つけ続けています。

 

詩歌の美など何一つ感じられないにもかかわらず、詩人を自分自身の標準にまで引き下げることほど傲慢不遜、無知蒙昧、無教養、唾棄すべき人間を私は知らない。

 

詩は神仏の御胸に宿るもの、詩歌より受ける彼または彼女の声は宇宙に響き渡る楽の音に他ならない。

 

天地万物こぞって詩という天来の声を賞め称えなければなりません。

 

詩は天上の言語なのであり、その美しい声のなかに私たちは喜びのプロフェシーを全身に感じ取るのです。

 

その後、読むシェイクスピアの神格化現象は西ヨーロッ パ全般に拡がりました。

 

ドイツではレッシングやゲーテがシェイクスピアを論じ、フランスではヴォルテール、スタンダール、ヴィクトル・ユーゴーがグロテスク(grotesque、人間を超越した絶対者が意味をなさない世界を曲線模様などで描いた)の劇作家としてシェイクスピアを称えました。

 

けれども、それぞれの国における中産階級の勃興とナショナリズムの発展を背景としてシェイクスピアの換骨奪胎の悲劇が続いたことは言うまでもありません。

 

 

うちむらとしのりシェイクスピア朗読                

http://shaks.jugem.jp

 

 

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